実は、私はつい今しがたまで迷っていました。
今回の講演は、今年の北数教全道大会で講習会の折に予定していた内容で、触れられなかったことについて、補足してお話しようと思っていました。講習会では、教育・教材の問題点を八本の柱としてまとめ、話を進めましたがテーマが大きすぎたため、不充分な形でしかまとめることできなかったのです。そこで、せっかく今回、機会をいただきましたから、その続きをと考えそのための資料も用意してきました。しかし、この会場に来るまでの間の道すがら、これで現場ともお別れなんだなあ、とあれこれ考えている内に、自分の教師生活の出来事がいろいろと思いだされ、自分の今の気持ち、そして教育者として歩んだ道について先生方に伝えた方がいいのではないかと心が揺らいできたのです。
でも、年4回しかない数実研の貴重な研究会の時間をそんなことに割いて、私のことをお話するのはおこがましいのではないかという気持ちもあります。いまだに心の整理ができないでいるのですが、人間、始まりがあれば終わりもあります。私の人生のひと区切りとして、やはり38年間の思い出話をさせていただきたいと思います。思いつくままの、とりとめのない雑談になるかもしれません。そのなかでひょっとしたら講習会でのお話もできればいいのですが。
さて、私の数学という学問への興味は、高校2年のときに芽生えました。母校である岩内高校は当時の郡部の高校としては随分、図書館の蔵書が充実していたんですが、私はいつも、適当な本を手当たり次第引っ張り出してはその序文を読むのを楽しみにしていました。
そんなある日、青表紙の新書が妙に目を引き、手に取ったのが「無限と連続」、遠山 啓先生の著書でした。その不思議なタイトルに惹かれ読み始めたのでが、もちろん内容がすべて理解できたわけではないのですが、遠山先生の叙述が分かり易いこともあって、結構楽しく読めて、「数学ってこんなことをするんだ」と感動したものです。これを契機に、進学できたら、数学を専攻しようと思い始めたのです。
やがて、受験期を迎えます。ではどこの大学に進学するか?、入試事情、経済事情等、いろんなことと相談し、北大へと進むことになったのですが、どこでどう間違えたか、なぜか物理学科に入ってしまったのです。
当時の物理学科は、それは凄い先生方がたくさん集まっていました。例えば、世界的な雪氷学者である中谷宇吉郎先生などが活躍していた時代なのです。その中で、私は専門の研究室を選ばなければならなかったのですが、実験が余り好きでなかったため、素粒子論の教室に行きたかったのですが、当時、学科きっての秀才と言われた2人の2人共がここを希望しているというのです。とても太刀打ち出来ません。いろいろ迷って行きついた先が、世界的研究を続けておられた宮原将平先生の研究室でした。ここは、実験とアイデアを重視するところで、私には荷が重過ぎた感じの研究室です。
そうして3年が過ぎ、卒論の研究テーマを選ぶ時期になります。いろいろ悩み調べた末、外国の研究室ではオシロスコープを使って、物質の電気的・磁気的性質を研究していることを知り、その配線図を写しとって作成することを卒論のテーマにしようと思いました。教授に相談したところ、面白いと勧められ、製作に取りかかるのですが、いざ始めると、なかなか思うように機械を作ることができません。そうこうしているうちに卒論締め切りが間近に迫ってきました。
そんなある日、配線図を寮に持ち帰って、睨めっこしていたら、同室の獣医学部の同級生が、何気なく覗き込んで(こいつが機械いじりが好きな奴だったんですが)、「なんだ。簡単にできるじゃないか。どれ、配線図を貸してみろ。すぐ作ってやる。」、矢継ぎ早、「その代わり、俺の語学のレポートを書いてくれ」と交換条件を出してきました(彼のレポートはドイツ語の翻訳だったのですが、4年生になってなぜ教養課程の語学かと不思議に思うかもしれませんが)。交渉成立です。こうして私は彼に作って貰った機械をもとに卒論を提出し、教授に良くできていると誉めていただき、彼もまた語学の単位を無事取ることができました。
いまでも、そのときの彼とはときどき会うのですが、
「おまえが卒業できたのは、俺が機械を作ってやったからだ。」
「いや、俺がドイツ語を翻訳してやったからだ。」
と言い合っては飲む仲なのです。
話は前後しますが、実は、大学に入学し、物理学科に入ってからは、実験が嫌いなこともあって、学業に専念できず、悶々としていた毎日を私は送っていました。やがて、合唱団の活動に足を突っ込み、気がついたらそちらの方が面白くなってしまい、講義はサボる、実験はしないで、合唱練習にのめり込んでいたのです。でも本業を疎かにしたツケはいつかはまわって来るものです。卒業間際、3日漬けで勉強した「量子力学」の単位をなんと落としてしまったのです。物理学科にとっては、もっとも大事なこの科目を落とすことは命取りです。青くなって教授に相談したところ、「もう一年やり直したら」というにべもない返答。でも私は、既に教員採用試験にパスしていたものですから、そのことを言って無理にお願いし、どうにか二週間の猶予を貰うことができました。
それからの二週間は地獄でした。夜が来るのが恐ろしいのです。初歩的な物理の概念が分からないため、テキストの一ページ目から勉強をしなければなりません。ベクトル方程式の意味が分からないときは、線形代数を始めから読みなおすなど、一日の睡眠時間は、3,4時間を切ってしまいました。寝る時間が惜しいのです。そうして、死に物狂いの勉強の末、どうやら追試に合格することができました。しかし,認定が卒業式の前日だったものですから、卒業式に間に合うことはできませんでした。
私の卒業認定は、他の人達が3月24日てあるのに対して、3月31日付けになっています。ぎりぎりの綱渡りの卒業だったのです。
こうして、私は晴れて教員として、余市高校に赴任することとなりました。
物理7時間と数学10時間の週17時間。赴任して持たされた時間です。随分、苦労しました。人に説明する立場になったのだから、これはいい加減なことは言えない。ところが、当時の数学のカリキュラムには、解析、幾何、一般数学といった科目だったんですが、物理屋の私は平面幾何などは一度も勉強したことがなかったものですから、授業はまさに、自転車操業。踏んだ分しか前に進まないのです。
教材研究はするのですが、明日やる分だけで手一杯で、授業で予定通り進んで時間が余ったときは大変です。やることがない。次の内容の下調べもしていないから進むことが恐ろしい。しょうがないから漫談でお茶を濁すといった感じです。こりゃ、いけない、と思って夏休みに入ってから猛勉強しました。3冊の問題集をすべて解いてある程度、貯金を作ることができました。
一方、部活はというと、幸運にも大好きな合唱部の副顧問に当てられ、充実した毎日を過ごすことができました。ところが、冬になってからスキー部の顧問から、副顧問を引き受けてくれないかと要請がありました。
当時、余市高校のスキー部は、アルペンはなかったのですが、ノルディックだけで、全国制覇をするなど、飛ぶ鳥落とす勢いでした。そのため、顧問は遠征に継ぐ遠征で、満足に学校にいれないから二人顧問制にする必要が生じてきたのです。そこで、急遽、私が、掛け持ちで顧問を引き受ける羽目になりました。
引き受けたはいいが、これが大変でした。運動系の部活だから、怪我をしたらまずいということで、必ず練習に立ち会わなければならないのです。校舎から離れた山の中で選手は練習するのですが、その寒いことといったら。下からジワーと寒さが張付いて、冷え込んで来るんです。ジャンプなんかは、2,3時間練習します。選手がサッと飛んで、スキーを担いでまた上がっていくときに感想を聞かれと、「君のはサッツが合ってないぞ……」なんて適当なことをいって誤魔化すのですが、余りに寒いものですから、懐にはいつもウィスキーの小瓶を忍ばせていたものです(余市ですから飲むウィスキーもニッカなのですが……)。隠れてちびりちびりやっていると、練習が終わる頃にはいつも瓶が空っぽになっていました。余談ですが、いまでもウィスキーが目の前にあると私はその頃の寒さを思い出すんです。足元からスーっと冷え込んで来るような錯覚に襲われて、ウィスキーはあれ以来、飲めなくなってしまいました。
ところで、スキー部には、あの札幌オリンピックのジャンプで優勝した笠谷幸夫君が、主将をしていたんです。まさか、当時は金メダルをとるなんて思ってもいなかったものですから、彼には「僕は好きで顧問をやってるわけじゃない」と文句をいったものでした。後悔してます。オリンピックの後、祝賀会をやったんですが、どうにも気まずくて、祝電だけで失礼させてもらいました。
有名人といえば、私の受け持った下の学年に三羽ガラスと言われる3人がいました。その内の二人はあの宇宙飛行士の毛利 衛君と先生方がよくご存知の北数教研究部長の国際情報高校教頭の菊池先生です。思えば、あの頃から、毛利君は、遠くを眺めていました。自分で望遠鏡を作って観測したり、一週間学校にででこないときがあって、あとから話を聞くと、日食を観測するために網走までいってたりとか。で、菊池先生はというと、授業内容はいつも予習してあって、チェック程度に聞いているくらい、数学が得意でした。まさか、先生と札幌東高校で同僚になるとは思ってもいませんでしたが、笠谷君と違って、菊地先生には邪険にしたことがなかったのです。お陰で結婚披露宴にも列席させていただきました。
さて、話を数学に戻しましょう。
その頃、教育課程の改定の動きが、大きな波となって現場を呑み込もうとしていました。日本はアメリカと夫唱婦随の仲でしたが、そのアメリカが焦っていたのが原因です。初の人工衛星の打ち上げ、そして有人飛行でも、アメリカは一歩も二歩もソ連に遅れをとっていました。アメリカ国内では工学技術の立ち遅れが指摘され、基礎教育の徹底指導が叫ばれていたのです。その余波は、日本にも及び、技術革新による現代化とそれに伴う教科指導の必要性が現場の中からも燻り始めました。
そんな折り、ある研究会の案内が回覧されてきました。まあ、後学のためにと軽いつもりで参加したのですが、その発表内容にとても深い感銘を受けたのです。それが北数教の研究大会でした。当時、北数教の設立功労者であった小樽千秋高校の林重一先生は、高校教育界では誰も取り入れたことのない集合論の先駆者として実践されており、andやorを使って鮮やかに説明されていましたが、物理学科卒の人間はお目にかかったことのないその概念は新鮮な感動と刺激を私に与えたのです。
そして、自分でもテーマを見つけて研究発表してみたいという衝動に駆られるようになりました。その気持ちは、「北数教で研究発表できるような授業をしなければ」、「教科書をただやるのではなく、生徒が理解できるような工夫ができないか」、と普段の授業の姿勢をも変えていきました。その内、研究発表にも欲がでてきて、とうとう日数教の全国大会にも参加させて貰いました。熊本が開催地だったのですが、当時は旅館にクーラーなんてありませんでしたから、その暑かったこと。研究発表の前日、深夜に汗びっしょりになって目が覚めたのが懐かしい思い出です。
たまたま参加したことから北数教との縁ができたことは、私にとってはとても幸運でした。私は随分遠回りをしてやっと数学の道に辿りつくことができたんです。私は数学教師になってから本当の数学の勉強を始めたように思います。だから私にとって余市と北数教は切っても切れない関係なんです。
その余市での生活も、合唱部、北数教と居心地がよかったために気がついたら10年の月日が流れていました。ある日、管理指導主事に呼ばれて、独身ということもあってかそろそろ異動を考えてみないかといわれて次に赴任したのが、岩見沢西高校です。相変わらず、北数教、合唱の活動はしていましたが、そこで私はまた一つ、大きな財産となる研究会に出会うことができました。それが、南数研です。
南数研は、岩見沢、三笠、夕張地区の先生方で作られている私的な数学研究会なのですが、月に一度集まって、数学に関するいろんな疑問点を出し合い忌憚なく発表するんです。妙にウマが合ったというか、授業での失敗も気軽に言えるグループでした。そこで、加藤先生(岩見沢西)、原田先生(長沼)、永渕先生(美唄聖華)といった素晴らしい先生方とも出会うことができました。永渕先生は当時、岩見沢東にいたんですが、研究会では原理を重んじ曖昧な点は残さない厳しさをもっていて、だから、発表する側も、深く研究して臨まなければなりませんでした。その姿勢はいまでも数実研などの発表の場で役立っています。また、永渕先生の教え子に今は山梨大学の助教授となった成田先生もいらして、北大生だった彼もよく研究会に出席していました。
そういったフランクな数学と人の付き合い。私はいまの数実研の中でも大切にできたらなと思っているんですよ。
岩見沢西高校では、最後の三年間は家政科のクラスを受け持ちました。受験体制から置き去りにされた子達。でも彼女らだって進学したい、医療系の職業に就きたいと思っている人も居るんです。私は彼女達に数学の楽しさを味わって貰いたかったのです。三年間、いろんな工夫をして授業をしました。夕張高校にいた加藤先生がブラックボックスを作ったぞと聞けば、公務補のおじさんに手伝って作ってもらったりもしました。そのときの気持ちが今の私の血潮になっています。彼女たちに理解して欲しいと実践したことは、私自身にとっても役立っています。人生の財産になっているんです。
そして彼女らを卒業させた後、現在いる札幌東高校に赴任することになります。
札幌東高校では、受験指導に追われていました。進学校ですから、大学の合格者数やセンター試験の結果にみんなが一喜一憂します。受験校の宿命的なものなのでしょう、実績を残す工夫が要求されるのです。この学校では、菊池先生や原田先生と一緒の学年をもたせてもらったことが印象に残っています。例年に比べて生徒の出来はあまり良くなかった学年でした。だから、生徒にとって分かり易いことだったら、正答率が上がるようなことだったら何でも試してみようという気運が学年団の中にありました。
例えば、当時、ベクトルの指導については札幌予備学院の清水先生が実践していた座標系で解くUFO作戦が脚光を浴びていました。一次変換の性質を使っているんだから決して邪道ではない。我々も取り入れてみてはということで早速授業でもやってみました。
これは、出題された平面ベクトルの図を、基本ベクトルを(1,0),(0,1)として変換した図に直しても、平行な性質、平行な線分等が変わらないという性質に着目したものです。この場合、正六角形は各頂点が簡単な整数で表される(が正六角形ではない)六角形に変換されます。そして正六角形に関するベクトルの問題をこのデフォルメされた六角形を利用するとすごく簡単に解くことが出来ます。では正八角形や正五角形の問題は、どんなデフォルメされた八角形、五角形を書いて解くとよいのか?。それは当時は分かってはいませんでした。また一般的に正多角形はどのような多角形の図を考えるとよいのかについても分かっていなかったのです。幸いに出題されることがなかったので助かっていたのですが、この点がUFO作戦の唯一のウィークポイントだなと私は感じて居りました。
ところが、その分からないことをまた生徒は聞きにくるんです。苦し紛れに答えていたらどうやらそれが当たっていた。でもそれを体系的、理論的に説明することができない。ずーっとそれが胸につかえていたんですけど、昨年長野オリンピックで原田の豪快なジャンプを見ていたら気分が高まっていたからなんでしょうか、たまたまちょこっと書いてみたらうまく解決できたのです。それを日数教の山口大会で発表させていただいたのですが、あれは楽しかった。よく死ぬ間際には過去の出来事が走馬灯のように駆け巡るといいますが、きっとあの大会もそうなんでしょうね。
話が横道に外れましたが、そんな風に札幌東高校では受験指導に追われていて、そしてそれで終わるはずでした。それがひょんなことから、北数教の研究部の教材開発部門として数実研が誕生し、私も一役を担うことなりました。数実研の仕事に携わった5年間はとても充実したものでした。教材研究でも新しい数学教育の理論を考える機会を与えて貰いました。思えば、私の研究発表をみると、ベクトルと複素数平面の分野が多く、ずいぶんこだわっていたんだなあと思います。いま数実研の研究発表ではまた、ベクトルの導入は矢線ベクトルか、数ベクトルかという話題が持ちあがっています。いつの時代も先生方の悩みは同じなんですね。でも篠路高校の真鍋先生のレポートにあるような、ベクトル場からの導入は、私の中にはなかった。新しい工夫も生まれようとしています。また、夏期セミナーでの疑問から研究が始まったShadow−Lineの問題が、数学セミナーの紙面を飾るまでになりました。
私は数実研で仕事ができたことにとても感謝しています。
ところで、今日の講演のテーマ「新しい青春との出会い」とどう私のお話した内容がどうつながっているかと皆さん思われるかもしれません。
私が夢中になれたことが二つあります。合唱とそして数学です。教育現場でその素晴らしさを共有したいと夢中になっていたらいつの間にか定年を迎える年になっていました。この二つに出会えたことが精神的に私を若返らせてくれた。青春は若者の特権なんでしょうが、合唱と数学をやっているときの(ワクワクするような)気持ちが私にとって青春だったのです。そしてその中で私はいろいろな人たちに支えられ助けられてきました。その感謝の気持ちはいつまでも忘れまいと思います。
残念ながら、合唱の世界とは少し離れてしまいましたが、数学という青春は、もう少し続けさせていただきたいと思っています。"数実研"とのご縁は、私にとって"新しい青春"との出会いなのです。