はじめに
先日、本研究会の早苗先生より電話があった。ネット上で紹介されていた私のレポートに質問がきているとのことであった。その時の電話でのやりとりの中で、本レポートを作ることとなった。したがって、第20回用に作成したレポート(当日は宿泊研修と重なって行けなかったが)の周辺部分だけであり、最近やっている内容はほとんど登場しない。また、ネット上で私のレポートに対する質問文を直接見ていないので、果たして質問された方の期待に沿う内容になったか不安であるが、以下で前回のレポートの周辺部分をまとめることとしたい。
第1章 私が教壇に立つまでの時代での数学との関わり
(1)幼い頃
今からずっと昔、自分が幼稚園に入るか入らないかの頃、クリスマスプレゼントとしてマグネットがついたひらがなや数字が形どられた子供のおもちゃをもらった。その後、小学校に入って、1+1=2 とか 2×2=4 といった算数の内容を教わることとなるが、このボードに磁石の力でくっついた数字を見ながら何やら遊んでいたと聞く。
(2)小学校から中学校の頃
小学校から中学校にかけて数学は経路がいくつかあったとしても答えが1つであることに妙な関心を覚え、理学部数学科への進学を決めたのが中学2年の頃。この頃までは数学が好きだった。しかし、その後次第に数学の問題はすぐ解けるものの『学問たる数学は嫌い』といった感覚が芽生えていく。それは、一言でいうと『数学って生活に役立たない』ということにでもなろうか。数学や数学的知識が生活する中でも必要となることは、もう少し大人になってわかっていくのだが、当時(高校入学前後)は化学や物理といった知識が工業生産の現場で直接的に活用されているにもかかわらず、数学はいつも数学の教科書の中に閉じ込められているような気がしていて大変不満に思っていた。『問題は解けるけど、いったい何のために解くの』って思っていたような気がする。加えて、『受験』というものが追い打ちをかけることになる。高校入試の問題を解く、といった連続の中で『問題が解けなければ合格できない』というプレッシャーへの跳ね返りか、高校入学後は私の学問的興味関心は数学から化学・物理へと変わっていくこととなる。
(3)高校時代
高校1〜2年の頃は数学の成績は良かったが、自分で数学を勉強していても大変苦痛であった。わからない所があれば、数学を担当されていた先生(現在、札幌西陵高校勤務)の所へ行って教えてもらって理解できたものの、心の中には『どうして数学を学ぶ必要があるのか』という懐疑心がついに消えることはなかった。特に(現在、数学を教えて給料をもらっているのも何だが)証明問題なんかは嫌いだった。証明問題が解けないから嫌いというのではない。証明で使われている命題はすでに誰かが証明済みのものであり、それを自らが証明して追体験することが、いわゆる学習であるということもわかってはいたものの、そういったところに時間を使うのではなく、そうした命題をどう生かすか(特に自分たちの生活との関わりで)に自分としては時間をかけたかったのだと思う。
科学研究部に入り、フラスコや試験管を片手に、自分が決めた研究テーマを探求していたのは、前述のような経過によるものである。しかし、そんなことをしていた私の高校生活も高3の時の高文連の支部大会をきっかけとしてまた変わっていくこととなる。3年間部長をやるといった(もちろん先輩や後輩もいた)やや異様な生徒を相手に、当時顧問をされていた先生には、多分迷惑をかけていたことだろうと思う。当時の私は、水質汚濁の問題をテーマにして定量的なデータ収集に時間を割いていた。そして、膨大に集まったデータをもとにいろいろと考察していたのだが、そういう日常の中から統計学(今でいうデータ解析学?)に強くひかれることとなる。『これこそ使える数学・生活の場で役立つ数学』のように当時の私には思えた。
(4)浪人時代〜大学時代
1年の浪人生活中は受験勉強はもちろんのこと、『使える数学』って何なのだろうかと考えていた。哲学書も読んだ。自分の考えをすぐまとめられるように論文の書き方についても学んだ。しかし、わずか1年の間にはこの『使える数学』って何なのかはわかるわけもなく、理学部数学科に合格し、また、いやな数学と向かい合うこととなる。工学部ではなく、理学部に進んだのは、特に統計学が勉強したかったからである。4年の大学生活中は後に『データ解析』と言われるようになる多変量解析やサンプリング法などといった数理的統計学から医学統計や農学統計・経済統計など各ジャンルごとになっている『統計学』をほぼ全領域学んだ。そうした中で必要とされたコンピュータやパソコンの利用技術も修得したし、自分としては『統計学は生活の中で広く利用されている学問』だと実感できて大変うれしかった。しかし、統計学は数学の一領域にすぎないのである。そのことは自分の勉強の仕方がバランスを欠き、数学という広い学問の中の一部しか知らないまま卒業をすることになると悟ったとき、実感した次第である。大学院を受験したものの当然の事ながら不合格となり、高校の教員採用試験合格により高校で数学を教えることとなる。
第2章 私が教壇に立ってから数学との関わり
(1)赴任先では『日本語』が通用しなかった
と、書いてしまうと初任地の方々に失礼になってしまうが、そういう感じが強かったM高校時代。前述のように『使える学問』の楽しさを話してあげたいという気持ちで教員になったものの、その前提となる『学習の習慣』がきちんと培われていない生徒を前に、教師である私にとって授業は大変苦痛であった。若かったから今と違って『勉強しない』ことが絶対に許せなかったのだと思う。そもそも勉強するという習慣のない生徒にとって、数学はつまらない、加えて、わからない教科の最たるものである。当時、負の数の引き算や分数計算ができないといった高校1年生を相手に、そうした『つまらない』『わからない』数学をどうしたらわかってもらえるか、大変辛かった。授業のペースを遅くしたからといって全員が理解できるわけでもない。教科書すら持ってこない生徒の対策のためにプリント教材を使って授業をしたこともあった。しかし、そのどれもこれも対処療法にすぎず、根本的解決になっていかなかった。
一方、中学校時代まで全く『お客さん』扱いされてきた生徒たちが方程式の解の求め方などそれまで全然わからなかったことが高校で初めて理解できた時、彼らの感じた成就感の高さは一般の生徒よりはるかに高かった。素直に『本当にうれしかった』と感想を寄せる生徒に『どの生徒だって心の奥底には学びに対する要求が必ずある』ということが実感できた。こういった生徒とのやり取りは教師としては普遍的に大切なこととは思うが、私が数学の教員として一番生徒に伝えたかったことは前述の通り、(数学の内容を理解した上で)『数学をどう生活の中に取り込むか』といったことであり、数学の内容が理解できなければそこまで到達できるわけがない。新米教員として教科指導に悩みながら、自分の理想と現実のギャップに何度挫折したことかわかりません。
2校目のS高校(商業科)時代、自分の授業スタイルが確立したものの依然として『生活の中で使える数学』の糸口がつかめないまま、当時、流行していた『授業書』と呼ばれるプリントによる授業展開を大学の先輩にあたるH先生と始める。そんな中、昭和61年8月、道研が新たに始めた講座『自主講座(4日間)』を受講して、日本の数学の教科書の徹底研究にチャレンジした。この時、あいの里の新校舎への移転準備を進めていた北海道教育大学(札幌校)の図書館の奥で、昔の日本でも私が求めていたような教材展開で数学の授業がされていた時代があったことがわかった。『生活単元カリキラム』、それが私が求めていたものに近いものであることがわかった。当時、『授業書』といって作ったいたものにも似ていて、『歴史は繰り返す』の言葉通りだと感じました。ただ、その生活単元カリキラムが現代のようなカリキラムに変遷していった最大の理由は『学力(知識)が向上しない』ということだそうで、何か割り切れないものを感じていた私です。
3校目のN高校(普通科)の時代も、生徒や生徒を取り巻く地域性も違っていたが状況はほぼ同じでした。授業で扱っている内容がほとんど理解できないといった彼らに、学校で学んでいる知識が生活の場でどう使えるかなどといった話題にはなかなかなっていかない(個別に接する中でそういった話題が展開したことはそれなりにあったものの、全体でとなるとないという意味で)。ただ、後述のようにこの学校の時代から普通科の高校でもパソコンが導入されるようになり、若干ですが、変化が見られたように思います。
4校目である本校に戻って来て、やっとそうした話題も提供できるようになり、私の心の中のモヤモヤも少しは晴れてきたような感じがしています。前回のレポートはそうした状況の中での話題提供であったのです。
(2)授業の組み立て(本校における)
かつて私が生徒だった時代、数学を担当されていた先生がしたように、私も休み時間のうちに次の授業のクラスに入り、(後輩である)生徒たちと雑談にふける。実はこうした時間帯に数学の実効性の一部を話したり、プログラミングの話しをしたりしているのである。定期考査が近づくとこうした折に自分が解いてもわからない問題を持ってくる生徒も数多い。生徒たちと話しをしていると、ここが自分の出身地であり、生徒の父母が本校OB(すなわち私の先輩)だったりもするため、これまでの勤務校とは違った話題の展開になることが多い。ただ、いくら出身校とはいえ、20年もの時間が経っているため、私の時代と今では生徒の在り方もそして生徒が話す話題性もまるで違い、全く別の高校に勤務しているように今でも感じる。
さて、休み時間中から次の授業の教室に入っているから、チャイムが鳴ったらすぐ授業開始できる。したがって50分ほぼ丸々授業を進めることができる。これは最初は生徒にとってもかなり大変だったようだが、慣れればそれなりに対応できるのが本校の生徒たちである。私は初任地のM高校でも、そして、現在の本校でも『授業はシナリオのないドラマ(芝居)だ』として授業を進めているから、授業は生徒に質問しながらのスタイルとなる。そして、その反応を見ながら関連して説明した方がよさそうなことを把握したり、あやふやに理解している内容を再確認させたりしている。しかし、そうしている間に時々脱線してしまい、その時々の自分の研究テーマの話しとなったりする(でも、だいたいはすぐ気付き、その続きは休み時間にということとなる)。こんなことの繰り返しをしている中で前作のレポートにもあるように、生徒が数学に関係あることないことによらず、私のところ(昨年度はその多くがパソコン教室で仕事をしている時に、今年は担任を持ったため、放課後の教室にくるものが多い)に聞きにくるのであった。
第3章 単元『複素数平面』をどう扱ったか
前述の通り、教室でその折々に学んでいる内容の生活の場での活用について話題提供することもある。が、そのほとんどは授業開始以前(休み時間中)だったり放課後だったりすることが多い。(前任校でもそうした話しを休み時間にしようとしたが、あまり生徒は関心を示さなかった。) したがって、授業開始以後は他の先生方のように普通の授業展開である。昨年の数学Bの単元『複素数平面』については、次の通りであった。
・使用教科書 |
数研出版株式会社 高等学校 数学B 第1章 複素数と複素平面 第2節 複素数平面(P30〜P521) |
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・指導事項 |
6.複素数平面 7.複素数の極形式と乗法、除法 8.ド・モアブルの定理 9.複素数と図形 章末問題 ※トレミーの定理は扱わなかった |
・配当時間 | 13時間(問題演習含む) |
・指導時期 | 12月第2週から2月末まで |
・指導方法 | 教科書にある流れの通りに、全例題の説明と全問題の解説をし、章末問題は基本的には自宅でやってくるように事前指導しておき、休み時間のうちに指名して黒板にやっておくように指示した。 |
・その他 | 授業の際、時間配分上のミスか最後の3分程度余ったことが2回程あり、極形式がうまく使えれば、複素数のn乗の計算が代数計算より簡単にできることを説明した。前回のレポートでふれた女子生徒が私のもとに来たのはその数日後であった |
第4章 教える教師が『わくわくする』授業を目指して
本校ではまだ余りないが、前任校では毎年、年間数回、数学の時間を使ってパソコン教室で授業をした。しかし、それは必ずしも『数学の内容』ではない。定期考査直後とか、年度末とか、生徒が授業に全然着いて来ない時期に、ワープロとしてパソコンを使わせたり、既製アプリケーションソフトのデモ版を使用させたりして50分を費やすのである。ただ、こうした授業では、生徒から言われるまでもなく、教える私の『表情』が違うのがよくわかる。極端に言うと、教室で数学を教える時は『目が死んでいる(?)』状態、パソコン教室で授業をするときは『わくわくしている(?)』状態とでも言うのだろうか(普段教室で授業を聴いてもらっている生徒たちには申し訳ないが)。昨年、本校に赴任して、前任校とは生徒たちが取り巻かれている環境が違うことと、1時間当たりに教える(と言うより、教え込む)内容が数倍に増えたということもあり、とても『目が死んだ』状態では伝達すべき数学の内容が消化できない。扱うべき例題を何分で説明し終えるか指導案を作り、確実に授業を進めなければならない。大変スリリングな状況です。ただ、やはり『授業はシナリオのないドラマ(芝居)だ』という持論の下、教える私が『わくわくする』授業を目指していきたいと考えています。なかなか現実的には難しいのですが……。だから、学校でインターネットが使えるようになると少しは教材に対してリアルタイムな展開事例もできてくるのではなかろうかとも思っているのですが(反面、大学入試という側面を考えると、現在のようなやり方のほうがベターなのかとも思うのですが)。
第5章 前回のレポートのBASIC言語のプログラムに関する部分
前回のレポート上のプログラムはN88BASICを使ったものであり、特別なものではありません。UBASIC/86を使ったプログラムも一部紹介しましたが、生徒が作ったものではなく、私が作ったものです。N88BASICだと桁数が多くなるとどうしても値を正確に表記できなくなるため、多倍長計算用言語として有名なこの言語を使ってみました。ただ、今回取り上げたような計算程度なら(大変手間がかかりますが)N88BASICでも作ることはできます。当時は忙しさもあり、そこまでしなかっただけです。
第6章 どこが便利なんだろう
〜『身につけた知識』が役立たないいらだちと……
以上、当時を思い出しながら前回のレポートの周辺をまとめてみました。前回のレポートを作っていた昨年度の3学期、自分が高校生の時代には『やる必要がない』と言われて全然教えてもらえなかった『複素数平面』関係(だからこれらの内容は大学で初めて学ぶことになる)の内容をなぜ今、後輩(本校の生徒)に教えなければならないのか。その『必要性』がわからず、一見便利なような『極形式』も、教科書の枠を超えて便利な知識とはならず、大学受験というものが控えている本校のような学校ならば生徒もおとなしく学んでいるだろうが、そうでない学校だったら………。『複素数平面』を教え終わって半年以上経つ現在でも、あの知識は一体どこが便利なんだろうかと生徒もそして私も強く思っている。単に、『受験に必要な知識だから』とは生徒に言いたくない(形式上はそういうポーズを示さなければならなかったが)、教えた知識が教科書や受験という教育の範疇内から飛び出していかないことにいらだちが今だに消えていかない私である(単なる個人的感傷かもしれませんが)。
おわりに
今日、生徒が勉強している放課後の教室で、化学がわからないという生徒と一緒に溶解度の計算などをやっていました。数学以外の内容(と言っても教えられるのは化学・英語・漢文ぐらい)を問われると、一瞬、自分の脳の奥底に眠っている高校時代の知識まで逆上らねばならず、やや時間が掛かる。しかし、後輩と一緒に同じ問題を解くといった喜びはやはり本校が母校だからだろうと思う。
さて、本稿がネット上で質問された方の期待に沿う物になったか否か自信がないが、当時のメモなどをもとに前回のレポートの周辺部分をまとめてみた。現在の私は、クラス担任を持ち、生徒のなかなか伸びていかない学力に蒼白になりつつ、今月下旬からの父母懇談会の準備をしているところです。数学の授業は本校で2年目であり、3年間の指導計画の下で、これまであまり言わなかった大学受験を意識した授業展開を始めています。本校入学後、これまでの半年間で生徒たちは『クラス』を中心とした仲間作りがほぼ完成に達し(問題が全然ないというわけではないが)、学力の向上を目指して『みんなで仲良く現役合格を』を合言葉に、高校生活を満喫しているようです。大丈夫なのかと大人として、先輩として、そして、第2の親として、生徒を見つめながらこれからも指導を進めたいと思っております。
教室で生徒と夕焼けを見ながら