北 数 教
第42回 数学教育実践研究会

−教育現場のおける基礎研究−

行列における零因子の構造

平成14年8月3日(土)
北海道小樽桜陽高等学校

北海道石狩南高等学校
数学科教諭 小栗 是徳

1、はじめに

 行列における零因子とは,例えば
     
のように,A≠O,B≠O,AB=O が成り立つとき,A,Bを零因子という。
(この『零因子』の定義は,後述の通り数学的な定義としては曖昧さがあるので,Def8で改めて定義することになる。)
 本稿の目的は,『行列における零因子とはいかなる構造をしているか』という生徒からの質問に応えることと,線型代数学における『零因子研究』である。

(1) 高校生にとっての零因子

 高校生にとって初めての零因子との出会いは,新鮮な驚きである。本校でも,かつて数学Cの授業で生徒から『行列における零因子とはいかなる構造をしているか』『どうすれば零因子がつくれるのか』という質問があったばかりでなく,昨年の本校生徒の加賀谷英樹君は,以下の通りの小研究を試みた。

(2) 生徒の小研究(要旨)

 冒頭のような例から,2次の正方行列について『零因子⇒逆行列をもたない』ことが予想されるので,これを背理法によって証明。(必要条件)
 ところが,逆に
   
のように,『逆行列をもたない』からといって『零因子』になるとは限らないので,十分条件についても考えた。(このとき,私の方では,行ベクトル,列ベクトル'だけの示唆を与えた。)
     
とおくとき,必要条件より,1//2'1//'2であるが,必要十分条件として
   『AB=O⇔i'j=0 ⇔ ij  1≦∀i,j≦2』  ☆
を導いた。
 さて,同君は,この2次の場合を3次に単純に拡張した。つまり
     
とおくとき,必要条件より
   i//j'i//'j   1≦∀i,j≦3
と,早合点してしまった。平面(2次元)と空間(3次元)とのギャップである。

(3) 高校生向けに直観的な説明

 正方行列A,Bが2次または3次のいずれにしても,『零因子』については,☆が成立しているが,これだけでは残念ながら構造的にどうなっているのかわからない。

A,Bが2次のとき

 生徒の解答のとおりである。
   i'j   (1≦∀i,j≦2)
 (これより,各i同士,各'j同士が平行)
   1≦∀i,j≦2

A,Bが3次のとき

CASE1:

A,Bが2次のときの単純な拡張。このとき,i'jで1つの平面πを決定している。
(πを3次元空間の真部分空間という。)
CASE2: iが1つの平面πを決定して,π⊥'j
(このとき,πを{'j}の直交補空間,または{'j}をπの直交補空間という。)
CASE3: 上と逆に'jが1つの平面πを決定して,π⊥i(直交補空間も同様) まとめると,空間(3次元)では
  『☆が成立⇔iを含む平面πまたは直線lと,'jを含む平面Σまたは直線gが,垂直』
 (このとき,平面π,直線lを平面Σ,直線gの直交補空間という。)

 一般に,これをn次元に拡張すると,n次元空間を垂直な2つの部分空間W1,W2に分割したとき,このW1からiを,W2から'jをとれば,☆が成立する。

 以上のような直観的な説明では,厳密性に欠ける。高校の数学Cの範囲では精確な論証はできないわけである。そこで,テーマをあくまでも零因子に限って,線型代数学の領域に一部踏み込んだ。これによって,4次元以上の抽象的なベクトルを導入する必要性も自然に納得できるはずである。同時に,線型代数学の動機づけにも成り得るものと考える。

2.零因子の構造

A,B,CはO(零行列)でないとする。まず,次の2つのテーマについて考える。

T AB=OとなるA,Bの必要十分条件は何か?
U 任意の行列Aを与えたとき,AB=O,CA=OとなるB,Cをそれぞれ構成せよ。

 以下,線型代数学の中で,必要とする定義(Def),定理(Th),命題(Pro)のみ確認しておく。定理(Th),命題(Pro)の証明は,すべて標準的な線型代数学のテキスト,例えば佐武一郎著『線型代数学』(多数出版されている中で最も参考にさせて頂いた)をご参照頂きたい。なお,本稿に直接関係する命題(Pro)については,できるだけ証明を付けた。

(1) 基本用語,記号

 ベクトル空間(または線型空間)とは,ベクトル演算が定義できる集合をいう。ここで,ベクトル演算とは,Vをベクトルの集合,K=R(実数の集合)とするとき
   @ V∋∈V   A V∋,K∋k⇒k∈V
このとき,Vをベクトル空間という。

(2) n次元ベクトル空間について

 ベクトルの成分は,すべて実数とする。
 =(a1,a2)を2次元ベクトル,=(a1,a2,a3)を3次元ベクトル,これを拡張して,一般に=(a1,a2,…,an)をn次元ベクトルといい,Vnで表す。
 n次元ベクトル空間では,の絶対値,=a1b1+a2b2+…+anbnの内積と定義すると,よりなるθが定義できるので,これをのなす角という。特に=0のとき,aとbは垂直といいa⊥bで表す。

Def1(部分空間)
V⊇Wについて,WもVと同じベクトル演算が定義できる集合のとき,WをVの部分空間(Sub Sp.)という。つまり,WがVの部分空間(Sub Sp.)とは,V⊇Wかつ
  @ W∋∈W  A W∋,K∋k⇒k∈W

Def2(直交補空間)−これが零因子のキーワードとなる
V⊇W:Sub Sp.に対して,W≡{∈V:,∀∈W}とおくとき,このWも,VのSub Sp.となるが,これを特にWの直交補空間という。

Def3(積空間,和空間)
V⊇W1,W2:Sub Sp.とするとき,
   W1∩W2≡{∈W1∈W2
   W1+W2≡{121∈W12∈W2
も,VのSub Sp.となるが,それぞれW1,W2の積空間,和空間という。

Def4(1次独立,1次従属)
V⊇W:Sub Sp.とする。W∋i,K∋ki 1≦i≦rに対して,
(1)k11+…+krr=0 ⇒ k1=…=kr=0のとき,{1,…,r}を,1次独立(indep)
(2) (1)の否定,つまり,K∋∃ki≠O(1≦i≦r) s.t. k11+…+krr=0が成立するとき,{1,…,r}を,1次従属(dep)という。

Def5(次元)
V⊇W:Sub Sp.とする。W∋i,1≦i≦rに対して,{1,…,r}がindep,かつ,W∋∀に対して{1,…,r}がdepのとき,rをWの次元,{1,…,r}をWの底(base)といい,dimW=r,W={1,…,r}と表す。

Def6(1次写像)
V,V':ベクトル空間に対して,f:V⇒V'が1次写像とは,K∋k,l,V∋∀に対して,f(k+l)=kf()+lf()

Def7(1次写像の像と核)
V,V':ベクトル空間に対して,f:V⇒V'が1次写像のときf(V)≡{f()∈V':∈V}をVのfによる像といい,Imfで表す。
f'()≡{∈V:f()=∈V'}をVのfよる核といい,Kerfで表す。

Remark V'⊇Imf,sub.sp.,V⊇Kerf,sub.sp.である。

Th1(1次写像と行列)
n,Vm:ベクトル空間 ⇒ ∃f:Vn⇒Vmが1次写像 s.t.f()=A ∀∈Vn
 この(m,n)行列Aは,fによって一意的(unique)

Remark 1次写像fと行列Aが一対一対応するので,fとAを同一視すると
 とおくとき,に対して
  Imf=ImA={A∈Vn}={'1'n},Kerf=KerA={∈Vn:A
 Vm⊇ImA,sub.sp.,Vn⊇KerA,sub.sp.である。

Th2(1次写像と次元)
f:Vn⇒Vmが1次写像,f()=A∈Vn
  ⇒ dimf(Vn)=n−dim(Kerf),つまりdim(ImA)=n−dim(KerA)

Remark 1次写像fによって,次元nがdim(Kerf)減るので,dim(Kerf)を退化次数という。

Cor f:Vn ⇒ Vmが1次写像,Vn⊇Ws:sub.sp.
 ⇒ dimf(Ws)=s−dim(Kerf∩Ws)

Prop1(直交補空間と次元)
V⊇W:sub.sp.として,V=W+W,W∩W=φが成り立つとする。
このとき,VをWとW⊥の直和といい,以後V=Wで表す。

Cor Vn⊇KerA={∈Vn:A}について,Vn=KerA(KerA)

Remark ここで,KerA={1 … am},(KerA)={1m }とすれば,☆が成立。

Th3(行列の階数rank)
 ⇒ dim{1m }=dim{'1'n}=dim ImA
 この結果定義される次元を,行列Aの階数といい,rankAで表す。

Cor rankA=dim(ImA)=n−dim(KerA)

(以上,線型代数学の準備)
(3) T AB=OとなるA,Bの必要十分条件は何か?

A=(m,n),B=(n,l)とする。

Prop2 AB=O ⇔ Im B⊆Ker A

pr) ☆より『AB=O⇔i'j=0 ⇔ i'j』及びProp1のCorより成立。 □ Prop2は,Tの回答として明快であるが,これについて補足する。

Cor AB=O ⇒ rankA+rankB≦n

pr) Prop2により,AB=O ⇒ ImB⊆KerA ⇒ dim(Im B)≦dim(KerA)
             ⇒dim(ImB)≦n−rankA[∵Th3のCor]
             ⇒rankB≦n−rankA □
 上記のCorは,が成り立つとは限らない。そこで,零因子を改めて定義する。

Def8(零因子の定義)
Aが零因子とは,OでないAに対して ∃B≠O s.t.AB=O または BA=O

 このように定義して,『rankA+rankB≦n』を仮定すると,Aに対して『ImB⊆KerA』つまりB=('1'l)をKerA={1m}のsub.sp.ととれば,Corの も成立。
この結果,Tの回答として『AB=O ⇔ rankA+rankB≦n』が得られる。 ☆☆

Remark ☆☆は,零行列を含む。1≦rank(A,B)≦n−1のとき,零因子である。

(4) U 任意の行列Aに対して,AB=O,CA=OとなるB,Cをそれぞれ構成せよ。

 AB=OとなるBの構成については,3で明らかになった。
次に,CA=OとなるCの構成については,Cを(k,m)行列とすると☆☆より,『CA=O ⇔ rankC+rankA≦m』が得られる。
具体的には,Prop1を使うと,Vm⊇ImA:sub.sp.より,Vm=(ImA)(ImA)l
(ImA)≡{∈Vm'i,1≦∀i≦n}
    ={t∈VmtA=
 ここで,行ベクトル:t=(x1…xm)∈VmはVmのsub.sp.である。よって,
    ci∈Vm 1≦∀i≦k
の構成は,Aに対して,{1k}を(ImA)のsub.sp.ととればよい。

Prop3(Uの応用例として,北海道大学理学研究科大学院資格試験問題から)
A,B:Oでないn次複素正方行列,rankA+rankB<n
 ⇒∃X≠O s.t. AX=XA=O かつ BX=XB=O

3.零因子とCaylay-Hamiltonの方程式

 正方行列に限ると,零因子の存在とその構成は,Caylay-Hamiltonの方程式(以下,CHEと略称)から明快である。以下,A=(aij):n次正方行列とする。
 まず,『Aが零因子⇒detA=0』は背理法によって成立。この逆が成立することを,CHEから証明すると共に,Aに対してDef8のBを具体的には構成する。固有値については既知とし,Aの固有方程式をfA(x)=0,CHEをfA(A)=Oとする。

(1) 2次の正方行列のとき

 高校の数学Cの範囲である。とおくと,CHEは,detA=0より
   fA(A)=A2−(a+d)A=O ⇒ {A−(a+d)E}A=A{A−(a+d)E}=O
よって,A≠Oに対して,
   
とおけば,B≠O,BA=AB=O よって,Aは零因子

(2) n次の正方行列とき

 まず,最小多項式について準備する。以下,多項式はすべてスカラー係数とする。

Def9(最小多項式)
g(A)=OとなるAの多項式g(A)の中で,Aの次数が最小かつAの最高次の係数が1のものをAの最小多項式といい,ΦA(A)で表す。ΦA(A)=Oである。

Prop4 g(A)=Oとなる任意の多項式g(A)に対して,g(x)はΦA(x)で割り切れる。

Cor1 Aの固有多項式fA(x)は,ΦA(x)で割り切れる。

Cor2 fA(λ)=0 ⇒ ΦA(λ)=0

(以上最小多項式の準備)
Prop5 Aが零因子⇔detA=0 pr)⇒は成立しているので,について示す。
 CHEは,detA=0より
 fA(A)=An+a1n-1+…+an-1A=O
  ⇒ A{An-1+a1n-2+…+an-1E}=A{An-1+a1n-2+…+an-1E}=O
よって,A≠Oに対して,g1(A)≡An-1+a1n-2+…+an-1Eとおけば,
1(A)≠Oのとき,Ag1(A)=g1(A)A=Oより,Aは零因子,このときB=g1(A)
1(A)=Oのとき,fA(x)=x(xn-1+a1n-2+…+an-1)よりfA(0)=0
Prop3のCor2よりΦA(O)=O,よって,Prop3よりg1(O)=O ∴an-1=O
次に,g1(A)=Oについて,fA(A)=Oと同様なことを繰り返せば有限回で
   A(A+a1E)=(A+a1E)A=O
を得る。ここで,gn-1(A)≡A+a1Eとおくと,
   gn-1(A)≠Oのとき,Agn-1(A)=gn-1(A)A=Oより,Aは零因子,B=gn-1(A)
   gn-1(A)=Oのとき,a1=0,このとき,a1=…=an-1=0よりAn=O
よって,Aは零因子,このときB=An-1   □

4.冪零行列

Def10(冪零行列)
A:n次正方行列とする。Am=O かつ Am-1≠OとなるAをm冪零行列という。

 冪零行列は,Def9から零因子の特別な場合である。この冪零行列の構造について考える。

Prop6 A=(m,n),B=(n,l)とする。rankA+rankB−n≦rankAB

pr) B=('1'l)とおくと,
  rank(AB)=dimIm(AB)=dimImA('1'l) [∵Th3]
            ≧dim('1'l)−dim(KerA∩{'1'l}) [∵Th2のCor]
            ≧dim('1'l)−dim(KerA)
            =rankB−(n−rankA) [∵Th3及びそのCor]
            =rankA+rankB−n   □
Prop7 A1,A2,…,Am:n次正方行列とする。
   rankA1+rankA2+…+rankAm−(m−1)n ≦rank(A12…Am pr) Prop6を繰り返し使う。  □ Cor A:n次正方行列とする。A:m冪零行列⇒rankA≦(m−1)n/m pr) Prop7で,A1=A2=…=Am=Aとおく  □ Prop8(冪零行列と固有値)
Aをm冪零行列,つまりAm=O かつ Am-1≠O⇔Aの固有値はすべて0 pr) (⇒)Aの任意の固有値をλとすると,∃ s.t.A=λ
よって,Am=Am-1(A)=Am-1(λ)=λ(Am-1
以下同様にして,Am=λmが成立。 Am=Oよりλm=0 ∴λ=0
)Aの固有方程式fA(λ)=0のn個の解λ1…λnについて,
λ1=…=λn=0 よって,λのn次方程式fA(λ)=0の解と係数の関係より,
各係数ak=0(k=1,2,…,n)  ∴An=O
よって,∃m≦n s.t.Am=O かつ Am-1≠O   □
Cor1 Aがm冪零行列 ⇒ CHEfA(A)=Oにおける各係数ak=0(k=1,2,…,n)

Cor2 Aがm冪零行列 ⇒ m≦n

Remark このCor2の結果,m冪零行列Aの構造は,m≦nなるmについて調べればよい。
 理論上はCor1によるが,Prop7のCorが有力な手掛かりとなる。

Prop9(2次の冪行列)
  A2=O,A≠O ⇔   ただし,a2+bc=0

pr) とおくと,CHEでdetA=0及びA2=Oより,(a+d)A=O
   ∴a+d=0  d=−a よって,成立。   □
Cor (A−λE)k=O,∀k≧2 ⇒ A=λE または λE+

Prop10(3次の冪行列)
 @A2=O,A≠O
  ⇔ 
 かつ,=(a b c) =(k l m)とおくと,=O,≠0,≠0
 AA3=O,A2≠O
  ⇔ A =(ij)=('1'2'3) ここで,'1'2'3は,dep.かつ,12=O
  1≡trA=a11+a22+a33

pr)()については,@は直接代入し,Aは,CHEに代入して成立。
(⇒)については,Prop7のCorを使うと
@は,rankA≦3/2より,rankA=1  よって,成立
Aは,rankA≦2より,rankA=2  よって,成立   □
 下記の具体的な構成例は,@はrankA=1を,AはrankA=2を,手掛かりとした。
 @の例:
 Aの例:  又は 

5,まとめ  −今後の進展ー

(1) 初めは,生徒の質問に応えるための『零因子』であったが,2次の正方行列では収まらず,予想以上に線型代数学の領域に入り込んでしまった。いずれも,大学で履修したはずであるが,本当にわかっていないことを痛感しながらの研究であった。例えば,Prop8の⇒のpr)は,『Frobeniusの定理』から導いていたところが,同僚の南俊明教諭から助言を頂き,その順序が覆った。つまり,Prop8の⇒のpr)の通り,Apの固有値はλpであるので,そのCorとして『Frobeniusの定理』が逆にすぐ導かれる。
ともあれ,T,Uのテーマを中心として,『零因子』の特別な場合として,CHEからの構成,冪零行列まで具体的な構成ができたことは一つの収穫であった。『Jordanの標準形』に発展する『冪零行列の標準形』については,次ぎの課題としたい。

(2) 線型代数学は,1世紀半前に完成されたという。その中で,『零因子』は特殊な存在で,その定義すら曖昧に扱われ,あまりとりあげられてはいないのが残念である。研究的に易しすぎるということだろうが,教育的には,生徒が興味を持つように,十分その価値を持っている。1つの指導法として,『零因子』を生徒に具体的に構成させる中でベクトルの内積を導入する方法も考えられる。また,線型代数学そのものについても,殆どのテキストが行列式から導入しているが,本稿のように『零因子』から導入し,先にベクトル空間を学び,行列式を後回しにすることも考えられる。教育的には,まだまだ未開発の分野で,大いに開発の余地を残していると思う。

(3) 現場からの基礎研究,という立場で最近の私は発信している。生徒からの質問,疑問は今回の『零因子』に限らず多種多様であるが,これに明快に応えていくためには,基礎研究は必要不可欠であると考えるからである。生徒と共に学ぶ教師でありたいと思う。