(1) 高校生にとっての零因子
高校生にとって初めての零因子との出会いは,新鮮な驚きである。本校でも,かつて数学Cの授業で生徒から『行列における零因子とはいかなる構造をしているか』『どうすれば零因子がつくれるのか』という質問があったばかりでなく,昨年の本校生徒の加賀谷英樹君は,以下の通りの小研究を試みた。
(2) 生徒の小研究(要旨)
冒頭のような例から,2次の正方行列について『零因子⇒逆行列をもたない』ことが予想されるので,これを背理法によって証明。(必要条件)
ところが,逆に
のように,『逆行列をもたない』からといって『零因子』になるとは限らないので,十分条件についても考えた。(このとき,私の方では,行ベクトルa,列ベクトルb'だけの示唆を与えた。)
とおくとき,必要条件より,a1//a2,b'1//b'2であるが,必要十分条件として
『AB=O⇔ai・b'j=0 ⇔ ai⊥bj 1≦∀i,j≦2』 ☆
を導いた。
さて,同君は,この2次の場合を3次に単純に拡張した。つまり
とおくとき,必要条件より
ai//aj,b'i//b'j 1≦∀i,j≦3
と,早合点してしまった。平面(2次元)と空間(3次元)とのギャップである。
(3) 高校生向けに直観的な説明
正方行列A,Bが2次または3次のいずれにしても,『零因子』については,☆が成立しているが,これだけでは残念ながら構造的にどうなっているのかわからない。
A,Bが2次のとき
生徒の解答のとおりである。
ai⊥b'j (1≦∀i,j≦2)
(これより,各ai同士,各b'j同士が平行)
1≦∀i,j≦2
A,Bが3次のとき
CASE1:
一般に,これをn次元に拡張すると,n次元空間を垂直な2つの部分空間W1,W2に分割したとき,このW1からaiを,W2からb'jをとれば,☆が成立する。
以上のような直観的な説明では,厳密性に欠ける。高校の数学Cの範囲では精確な論証はできないわけである。そこで,テーマをあくまでも零因子に限って,線型代数学の領域に一部踏み込んだ。これによって,4次元以上の抽象的なベクトルを導入する必要性も自然に納得できるはずである。同時に,線型代数学の動機づけにも成り得るものと考える。
T AB=OとなるA,Bの必要十分条件は何か? U 任意の行列Aを与えたとき,AB=O,CA=OとなるB,Cをそれぞれ構成せよ。 |
以下,線型代数学の中で,必要とする定義(Def),定理(Th),命題(Pro)のみ確認しておく。定理(Th),命題(Pro)の証明は,すべて標準的な線型代数学のテキスト,例えば佐武一郎著『線型代数学』(多数出版されている中で最も参考にさせて頂いた)をご参照頂きたい。なお,本稿に直接関係する命題(Pro)については,できるだけ証明を付けた。
(1) 基本用語,記号
ベクトル空間(または線型空間)とは,ベクトル演算が定義できる集合をいう。ここで,ベクトル演算とは,Vをベクトルの集合,K=R(実数の集合)とするとき
@ V∋a,b⇒a+b∈V A V∋a,K∋k⇒ka∈V
このとき,Vをベクトル空間という。
(2) n次元ベクトル空間について
ベクトルの成分は,すべて実数とする。
a=(a1,a2)を2次元ベクトル,a=(a1,a2,a3)を3次元ベクトル,これを拡張して,一般にa=(a1,a2,…,an)をn次元ベクトルといい,Vnで表す。
n次元ベクトル空間では,をaの絶対値,a・b=a1b1+a2b2+…+anbnをaとbの内積と定義すると,よりなるθが定義できるので,これをaとbのなす角という。特にa・b=0のとき,aとbは垂直といいa⊥bで表す。
Def1(部分空間)
V⊇Wについて,WもVと同じベクトル演算が定義できる集合のとき,WをVの部分空間(Sub Sp.)という。つまり,WがVの部分空間(Sub Sp.)とは,V⊇Wかつ
@ W∋a,b⇒a+b∈W A W∋a,K∋k⇒ka∈W
Def2(直交補空間)−これが零因子のキーワードとなる
V⊇W:Sub Sp.に対して,W⊥≡{x∈V:x・y=0,∀y∈W}とおくとき,このW⊥も,VのSub Sp.となるが,これを特にWの直交補空間という。
Def3(積空間,和空間)
V⊇W1,W2:Sub Sp.とするとき,
W1∩W2≡{x:x∈W1,x∈W2}
W1+W2≡{x1+x2:x1∈W1,x2∈W2}
も,VのSub Sp.となるが,それぞれW1,W2の積空間,和空間という。
Def4(1次独立,1次従属)
V⊇W:Sub Sp.とする。W∋ai,K∋ki 1≦i≦rに対して,
(1)k1a1+…+krar=0 ⇒ k1=…=kr=0のとき,{a1,…,ar}を,1次独立(indep)
(2) (1)の否定,つまり,K∋∃ki≠O(1≦i≦r) s.t. k1a1+…+krar=0が成立するとき,{a1,…,ar}を,1次従属(dep)という。
Def5(次元)
V⊇W:Sub Sp.とする。W∋ai,1≦i≦rに対して,{a1,…,ar}がindep,かつ,W∋∀xに対して{a1,…,ar,x}がdepのとき,rをWの次元,{a1,…,ar}をWの底(base)といい,dimW=r,W={a1,…,ar}と表す。
Def6(1次写像)
V,V':ベクトル空間に対して,f:V⇒V'が1次写像とは,K∋k,l,V∋∀x,yに対して,f(kx+ly)=kf(x)+lf(y)
Def7(1次写像の像と核)
V,V':ベクトル空間に対して,f:V⇒V'が1次写像のときf(V)≡{f(x)∈V':x∈V}をVのfによる像といい,Imfで表す。
f'(0)≡{x∈V:f(x)=0∈V'}をVのfよる核といい,Kerfで表す。
Remark V'⊇Imf,sub.sp.,V⊇Kerf,sub.sp.である。
Th1(1次写像と行列)
Vn,Vm:ベクトル空間 ⇒ ∃f:Vn⇒Vmが1次写像 s.t.f(x)=Ax ∀x∈Vn
この(m,n)行列Aは,fによって一意的(unique)
Remark 1次写像fと行列Aが一対一対応するので,fとAを同一視すると
とおくとき,に対して
Imf=ImA={Ax:x∈Vn}={a'1 … a'n},Kerf=KerA={x∈Vn:Ax=0}
Vm⊇ImA,sub.sp.,Vn⊇KerA,sub.sp.である。
Th2(1次写像と次元)
f:Vn⇒Vmが1次写像,f(x)=Ax ∀x∈Vn
⇒ dimf(Vn)=n−dim(Kerf),つまりdim(ImA)=n−dim(KerA)
Remark 1次写像fによって,次元nがdim(Kerf)減るので,dim(Kerf)を退化次数という。
Cor f:Vn ⇒ Vmが1次写像,Vn⊇Ws:sub.sp.
⇒ dimf(Ws)=s−dim(Kerf∩Ws)
Prop1(直交補空間と次元)
V⊇W:sub.sp.として,V=W+W⊥,W∩W⊥=φが成り立つとする。
このとき,VをWとW⊥の直和といい,以後V=WW⊥で表す。
Cor Vn⊇KerA={x∈Vn:Ax=0}について,Vn=KerA(KerA)⊥
Remark ここで,KerA={a1 … am}⊥,(KerA)⊥={a1 … am }とすれば,☆が成立。
Th3(行列の階数rank)
⇒ dim{a1 … am }=dim{a'1… a'n}=dim ImA
この結果定義される次元を,行列Aの階数といい,rankAで表す。
Cor rankA=dim(ImA)=n−dim(KerA)
A=(m,n),B=(n,l)とする。
Prop2 AB=O ⇔ Im B⊆Ker A
Cor AB=O ⇒ rankA+rankB≦n
Def8(零因子の定義)
Aが零因子とは,OでないAに対して ∃B≠O s.t.AB=O または BA=O
このように定義して,『rankA+rankB≦n』を仮定すると,Aに対して『ImB⊆KerA』つまりB=(b'1…b'l)をKerA={a1…am}⊥のsub.sp.ととれば,Corの も成立。
この結果,Tの回答として『AB=O ⇔ rankA+rankB≦n』が得られる。 ☆☆
Remark ☆☆は,零行列を含む。1≦rank(A,B)≦n−1のとき,零因子である。
(4) U 任意の行列Aに対して,AB=O,CA=OとなるB,Cをそれぞれ構成せよ。
AB=OとなるBの構成については,3で明らかになった。
次に,CA=OとなるCの構成については,Cを(k,m)行列とすると☆☆より,『CA=O ⇔ rankC+rankA≦m』が得られる。
具体的には,Prop1を使うと,Vm⊇ImA:sub.sp.より,Vm=(ImA)(ImA)l
(ImA)⊥≡{x∈Vm:x・a'i=0,1≦∀i≦n}
={tx∈Vm:txA=0}
ここで,行ベクトル:tx=(x1…xm)∈VmはVmのsub.sp.である。よって,
ci∈Vm 1≦∀i≦k
の構成は,Aに対して,{c1…ck}を(ImA)⊥のsub.sp.ととればよい。
Prop3(Uの応用例として,北海道大学理学研究科大学院資格試験問題から)
A,B:Oでないn次複素正方行列,rankA+rankB<n
⇒∃X≠O s.t. AX=XA=O かつ BX=XB=O
(1) 2次の正方行列のとき
高校の数学Cの範囲である。とおくと,CHEは,detA=0より
fA(A)=A2−(a+d)A=O ⇒ {A−(a+d)E}A=A{A−(a+d)E}=O
よって,A≠Oに対して,
とおけば,B≠O,BA=AB=O よって,Aは零因子
(2) n次の正方行列とき
まず,最小多項式について準備する。以下,多項式はすべてスカラー係数とする。
Def9(最小多項式)
g(A)=OとなるAの多項式g(A)の中で,Aの次数が最小かつAの最高次の係数が1のものをAの最小多項式といい,ΦA(A)で表す。ΦA(A)=Oである。
Prop4 g(A)=Oとなる任意の多項式g(A)に対して,g(x)はΦA(x)で割り切れる。
Cor1 Aの固有多項式fA(x)は,ΦA(x)で割り切れる。
Cor2 fA(λ)=0 ⇒ ΦA(λ)=0
冪零行列は,Def9から零因子の特別な場合である。この冪零行列の構造について考える。
Prop6 A=(m,n),B=(n,l)とする。rankA+rankB−n≦rankAB
Cor2 Aがm冪零行列 ⇒ m≦n
Remark このCor2の結果,m冪零行列Aの構造は,m≦nなるmについて調べればよい。
理論上はCor1によるが,Prop7のCorが有力な手掛かりとなる。
Prop9(2次の冪行列)
A2=O,A≠O ⇔ ただし,a2+bc=0
Prop10(3次の冪行列)
@A2=O,A≠O
⇔
かつ,a=(a b c) k=(k l m)とおくと,a・k=O,a≠0,k≠0
AA3=O,A2≠O
⇔ A =(aij)=(a'1,a'2,a'3) ここで,a'1,a'2,a'3は,dep.かつ,a1=a2=O
a1≡trA=a11+a22+a33,
(2) 線型代数学は,1世紀半前に完成されたという。その中で,『零因子』は特殊な存在で,その定義すら曖昧に扱われ,あまりとりあげられてはいないのが残念である。研究的に易しすぎるということだろうが,教育的には,生徒が興味を持つように,十分その価値を持っている。1つの指導法として,『零因子』を生徒に具体的に構成させる中でベクトルの内積を導入する方法も考えられる。また,線型代数学そのものについても,殆どのテキストが行列式から導入しているが,本稿のように『零因子』から導入し,先にベクトル空間を学び,行列式を後回しにすることも考えられる。教育的には,まだまだ未開発の分野で,大いに開発の余地を残していると思う。
(3) 現場からの基礎研究,という立場で最近の私は発信している。生徒からの質問,疑問は今回の『零因子』に限らず多種多様であるが,これに明快に応えていくためには,基礎研究は必要不可欠であると考えるからである。生徒と共に学ぶ教師でありたいと思う。