ある科学歴史家の微分の言いぬけ説
― Berkley のNewtonのFluxionとLeibnitzのDifference批判との比較 ―
北村正直
北海道大学知識メディアラボラトリー
はじめに:
BerkleyはNewtonと同時代の哲学者である。カリフォルニア大学のある町が優れた学問の府がある町の名前に相応しいとしてふさわしいとして彼の名前をとったほど、有名な優れた哲学者である。彼はまた按手を受けた聖職者であり、神学上の著作もありBishopの称号も受けている。しかし、彼はNewtonの仕事(Works)を受け入れることができなかった。彼はそのNewtonが著名になり、彼を慕う学者が少なくないのを不快に感じていたようである。彼は彼の学者としての労力をNewtonの力学と微分法(Method of Fluxion)に振り向けていた。力学批判は「On Motion」という著書に、微分法批判は「The Analyst」という著書にまとめられている。前者はMentor BooksというPaper-BackのBerkley 著作集に収められているが、後者は日本では中々お目にかかれなかった。しかし、現在はWeb上で容易に見ることができる。
Berkleyが微分を理解することができなかったのは「無限小」を通常の(日常慣れ親しんでいる)数概念の範囲内だけで論理的に理解しようとしたことによる。当時の多くの科学者はいとも簡単に △t → 0 という極限操作を受け入れることができたが、厳密さを追い求めるBerkleyにはこの極限操作は自然哲学者(科学者)としてはいかにも杜撰な思考にしか映らなかった。当時はまだこの極限操作の数学的基盤はまだ現れていなかった。ε-δ論法はかなり後の世の出来事である。Berkleyがこの新しい計算法を受け入れることができなかったことには同情できる。
最近、東北大学数学科の黒木氏のWeb掲示板で「村上陽一郎の微分の言い抜け」という記事を読んでみた。そこに引用されていた村上氏のエッセイの中で村上氏は微分法を「三百代言的・・」と批判しているのである。この微分批判の根拠はBerkleyのNewtonの「Fluxion批判」の根拠と殆ど同じである。しかし、今は20世紀から21世紀への移行の時期であり、「The Analyst」が書かれた1734年ではない。極限操作も無限小も確かな数学的基盤の上に確立されているときなのである。そのような時点で同じBerkleyと同じ主張をする科学哲学者、科学史学者として著名なこの村上氏に、私は同情も憐憫の情も抱くことはできない。ただその無鉄砲な大胆さに驚くばかりである。
しかし、この出来事を一つの社会現象として見ると、私は現代における学校教育、大学教育における数学・科学教育に私達が留意しなければならない教訓がここに含まれているのではないかと考えている。現代の数学や科学の成果は誰でも容易にエンジョイ出来るが(またその成果が生み出す悪影響に生存さえも脅かされもしているが)、この成果を生み出す基礎は一般の人々には理解するのはかなり困難な話題なのである。それにも拘らず、無限大、無限小の概念、相対性理論や量子力学の基礎などのある程度の理解は、すべての大学生に必要なものではなかろうか。それにも拘らず現代社会のインフラストラクチャーを支えている科学技術の基礎的理解は高等教育を受けたものには必要な知識なのである。これらの知識をどのように大学のカリキュラムに組み込むか、如何に学生が理解できるように伝えていくかを我々は問われているのでなかろうか。
無限小は数ではない:
1967年に私はイギリスのバーミンガム大学の数学科で研究していた。数学科にはPure Mathematics、Applied Mathematics and StatisticsとMathematical Physicsの三部門があり、私は最後の数理物理学部門に属していた。そのときPure Math部門のMathematical Logicを研究している学者と知り合いになった。彼は丁度Non-Standard Analysisの研究に手を染めたばかりであった。それで私の研究室に毎日やってきてその話しばかりしていた。その内に私も引き込まれて二人で一緒にLuxenbergのLecture notesを読み始めることになった。そのとき、資料の出所は今指摘できないが、『Leibnitzが「無限小は数ではない。それは傾向(tendency)ともいうべきものである」と言った』ということを目にして驚いたことがある。RobinsonはNon-standard Analysisで無限小をまさに"傾向"として、つまり数列全体として、定義していると言えるからである。
無限小はR+(正の実数)上のゼロに収斂する数列ということになる:これを厳密に定義するには込み入った議論が必要であるが、手っ取り早い表現ではあるが。無限小はこの数列の一つの要素やその極限値そのものではないのである。これは無理数を有理数のField上でのCauchy数列として表すのと同様であり、極限値はこの数列の要素ではない。Berkleyや村上氏は極限値と数列(傾向)とを同一視して論理的矛盾だと声高に微分を、そして微分を使う科学や数学を、さらに科学者、数学者を批判しているのである。
この二人の共通点は共に相対主義の立場に立つこと、さらに共に日常の経験を重んじていることである。このように日常の感覚的経験のみを確かなこととするならば現代物理学、現代数学を理解することは不可能であろう。現代数学は抽象的な論理的思考の経験を積まなければ理解は難しい。アインシュタインは直感を大切にした人であるが、彼は「訓練された直感」という言葉を使っていてその場の思いつきの直感を勧めているのではないのである。この訓練された直感を如何に授業の中で育てていくかも我々教師に課せられた課題であろう。
付記:
別紙のBerkleyのThe Analystからの抜粋と村上氏の「微分の言い抜け」はWeb上で、それぞれ次のキーワードでたどれます。
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村上陽一郎 微分 黒木