もう一つの理科ばなれ

北村 正直:北大名誉教授

 高校生、大学生の理科ばなれは15年以上も前から教育関係者のあいだではしんぱいされていた。ところが最近、日本では、我々の気付かないところで、この理科ばなれ以上に深刻な問題が進行しているのである。それは一部の理科教育学者がある怪しげな科学観に基づいた理科教育を広めようとしていることである。ある科学教育の解説書に
・・現在、科学の理論や法則についての考え方が、次に述べるように変化してきている。それは、科学の理論や法則は科学者という人間と無関係に成立する、絶対的・普遍的なものであるという考え方から、科学の理論や法則は科学者という人間が創造したものであるという考え方に転換してきているということである。と書かれている。またある理科教育の雑誌の論文に・・私に伝わってくる情報は「・・自然科学者は、科学は相対的なものとして、動的なものとして把握していますね。・・」
と論じ、さらに続けて
自然科学は人間が創造したもので変化する。自然科学は科学者により異なる。
と科学を性格付けしている。このような理科教育の考えを「構成主義理科教育」という。構成主義によれば、キューリー夫人はラヂウムや放射能を発見したのではなくて、そのような考え方を創ったのである。また電子も中性子も科学者により発見されたのではなく、ある科学者達がそのような考えを創り出し、科学者の多くがそれに同意するという社会的行為を通して、社会的に構成(構築)されたということになるのである。放射能や電子も科学的、客観的事実ではなく、「社会構造」つまり社会的存在としての人間が創り出したものになり、それが「科学の本質」なのであると「構成主義」は主張している。

 このような考えが、個人的なものならば、「そんな馬鹿げたことを言う人もいるのか。」と聞き過ごすことができるだろう。ところが最初に引用した文章は個人的なものではない。これは文部省発行「小学校学習指導要領解説:理科編」からの引用なのである。この「学習指導要領」がガリレオ、ニュートンの科学革命以来数世紀にわたり、世界で受け入れられてきた科学の概念を否定し、現在も実際に研究に携わっている科学者が想像もできないような突飛な科学観に基づいて、小学校の理科教育をすすめているのである。これは文部省主導によるもう一つの理科ばなれであるとも言えよう。幸いなことに、中学校学習指導要領:理科編にはこのような考えは見当たらない。しかし、小学校と中学校の指導要領が、互いに相容れない、二つの科学観に基づいて書かれているという奇妙な事態になっていることを関係者は知らなければならない。

 この解説書の巻末にある、指導要領の本文の中でもこの基本姿勢の違いは明確に現れている。例えば小学校学習指導要領第2章第4節理科第1目標 で「・・自然の事物・現象についての理解を図り、科学的な見方や考え方を養う。」と書かれているが"理解"とか"科学的"という言葉が出てくるのはここだけである。同じ節の第2以下には学年ごとの目標が記されているがすべて「・・についての見方や考え方を養う。」もしくは「・・についての考えをもつようにする」となっている。

 これに対して中学校学習指導要領では各分野ごとの目標を「・・規則性を発見したり課題を解決したりする方法を習得させる。」とか「・・理解させこれらの事象に対する科学的な見方や考え方を養う。」と表現している。「構成主義」によれば「規則性」は人間が認識すれば「創られる」のであって、はじめから自然界にあるのではない。従って規則は発見することはできないのである。従って常識として受け入れられている「科学的つまり客観的」な見方、考え方はなく、生徒・児童の主観的な見方、考え方しかないのである。(解説書では客観性を「多くの人によって公認されること」と定義している。まさに社会的構造そのものの考えが披露されている。)

このような"科学法則の客観性を否定し、真理は存在せず、科学は人間の「創ったもの」"という考えで教師が子供達に接したとき、子供達が自然の仕組みの素晴らしさに心を躍らせることを期待できるであろうか。子供達の理科ばなれはますます進み、間違った自然観を持つようになる。さらに"真理などというものは存在せず、人間(個人)があらゆるものの尺度である。"という相対主義的考えを持つものが増え、すべての基準を客観的な真理ではなく、自分自身の主観におくようになるとすると、社会そのものが成立しなくなる恐れさえあるのである。

 このような考え方で「日本の教育」の基本的方針が立てられ、このような考えによって将来の教師が教育学系大学において育成されていくことは想像するだけでと背筋が寒くなる。政治家はこのような問題を含めて「教育の改革」を考えているのだろうか。社会のご意見番であるマスコミもこのような問題と取り組み、もっと深く掘り下げて論じてほしい。

(北村 正直:北大名誉教授、物理学・教育工学)
(この記事は北海道新聞2月21日夕刊の文化欄に掲載されたものです)