反科学・反理性と科学教育

北村 正直  (元)北海道大学

1.はじめに

 「科学の性質や規則性,真理などは,人間に無関係に自然の中に存在するものではない。自然の性質や規則性は,人間が見通しとして発想し,観察,実験などにより検討し承認したものである。つまり,自然の性質や規則性,真理などは人間の創造の産物である。」1)これは昨年発行されたある理科教育解説書からの引用である。
 現在の科学は,ガリレオ,ケプラー,ニュートン以来,数百年にわたり,科学者と呼ばれる人間によりつくりあげられたことは確かである。しかし,自然科学の理論や法則は道路交通法の規則,市議会で制定される都市の美観条例とは異なり,ある程度の任意性はあっても,上記の引用文のように人間が創造したと言い切る科学者は殆どいない。また科学理論の成立は芸術作品創作や文芸作品の創作活動とも同列に論ずることはできない。科学は"普遍的に成り立つ",すなわち"人間に無関係に成立する"という科学の性質のゆえに,人類にとって有用な成果を生み出すことができたのである。従って,上記に引用文した科学観は,この数百年にわたって認められてきた科学の性質を真っ向から否定するものである。
 この解説の筆者は「科学の見方が転換してきている」と説いているが,そのような"転換"を認める科学者はどれだけいるであろうか。殆どすべての科学者は「そんな考えをする人がいるの」と驚くに違いない。ところが,この考えは少数の日本の理科教育学者だけに限られているのではない。このような考えは20世紀の最後の数十年間に欧米の人文学者や社会学者の間に流行し,さらに科学・教育にも影響を与えつつある世紀末的現象なのである。そしてこの"はやりの科学観"は"科学をしている本当の科学者"の気付かぬ内に日本の理科教育にも忍び込んでいたのである。
 1992年に発表された,アメリカのナショナル科学教育基準の原案は始めて"はやりの考え方",つまり"構成主義"に基づいて書かれたと明記された。それほど,アメリカの教育界では構成主義は勢力を広げていたのである。その頃には,同じ様に日本でも流行の"構成主義教育"は広がっていた。"はやりの科学観"を推進しようとしている冒頭に引用した解説書の著者達は,トーマス・クーンの言葉を借り,「古いパラダイムでは・・,新しいパラダイムでは・・」2,3)という理由で,新しいパラダイムによる教育,つまり相対主義的な構成主義理科教育を日本が受け入れることが教育改革であるという印象を与えようとしている。
 この「はやりの教育」は2002年から施行される小学校学習指導要領の基礎となっていたのである。
 アメリカの科学者,数学者,哲学者達がこの"はやりの思想"の流行が重大な事態をもたらしていることに気付き始めたのは1990年前後のようである。そしてこの頃より,"はやりの思想"の反科学,反理性的な性格を徹底的に分析し,批判する著書が見受けられるようになった。4,5,6,7,8)これらの批判は,"はやりの思想"の推進者達との間の激しい論争に発展し,さらにいわゆる「ソーカル事件」で論争はその頂点に達した。
 この"はやりの思想"の芽生えは1960年代世界中の大学キャンパスを吹き荒れていた学生運動が終焉した頃にある。しかし,「人間はすべての基準である」という考えはギリシャ時代から近代に至るまで繰り返し歴史に登場している。20世紀の終わりになって,それが"反科学","反理性","反啓蒙"運動としていたるところで現われ,広がったのである。これについては簡単な紹介にとどめ,詳細は引用文献4〜8)に譲る。この小論文では「人間文化」と「科学文化」の相互作用の観点からこの問題を考察する。さらに2002年度から施行される「小学校学習指導要領 理科」に顕わに表明されている(非科学的ではない)反科学な面を分析し,続いて日本の大学における科学教育,さらに特に教員養成と科学教育について考察する。

2. 科学・技術と社会:STS

 科学・技術の現代社会への貢献は非常に大きく,従って科学者は社会と関わりを持たざるを得なくなってきている。ポピュラーな科学者像の一つに"明けても,暮れても実験室,研究室に閉じこもり,外界の出来事には疎い人間"というのがある。数多い科学者の中にはそのような科学者もゆるされるであろう。しかし,一般的には科学者は,今や「外界の出来事」に無関心でいることはできなくなった。一方,一般の人々も,現在の科学・技術が大きな影響を与えている社会で責任ある市民として行動する為には科学・技術に関する基本的知識は身につける必要がある。実際,一般教育科目としての科学の目的の一つは、この必要性に応えることである。
 70年代から80年代にかけて,イギリスでは"Science in Social Context(SISCON)"というプロジェクトが開発された。このプロジェクトは科学を社会の中の重要な部分の一つとして,社会状況の中で学ぼうという試みである。
 最近,科学,技術と社会の関係を社会学的に,また哲学的に研究しようという"Science,Technology and Society(STS;科学・技術と社会)"という新しい学問分野があらわれた。アメリカでは多くの大学にSTSの研究所が設けられ,また一般教育科目として取入れられ,さらに学部,大学院の専攻さえも設けられている。日本の大学でも一般教育科目として設けられている「STS」を目にするのも珍しいことではない。
 このようなプログラムは,理工系の学生が3,4年次に彼等が学んでいることと社会との関係,科学知識と技術を持った市民としての彼等の将来の責任について学び,考える良い機会として評価できる。

3.反科学,反理性の横行

 一見,理想的にさえ見える大学のSTSプログラムは,実際には問題が多かった。それはSTSの研究と教育は,科学の内容を知らない社会学者,人文学者が主として関っていたことによる。しかも"科学の真理を否定する"思想を持つ学者が専門家としてこの分野に参入してきたからである。
 彼等の中には「学問と政治理念は不可分である」という信念を持つものが少なくない。彼等は「虐げられてきた人々の権利を守り,彼等の正しさ」を主張する少数グループの人権擁護論者,女性特有の学問をすすめる女性学者,アフロ中心主義者,先住民族の文化,風習を研究している文化人類学者,ポストモダニスト達が含まれていた。彼等は「現代の社会を支配している文化は文芸復興以降のヨーロッパの資本主義的な,白人中心の人種差別概念,男性中心の性差別概念の上に作られた文明である。すべての人を幸せにするには,この現代の文明体制を形成している政治的,経済的,社会的そして文化的Institutions(機構,制度)から権威を奪わなければならない」と主張する。このInstitutesは啓蒙思想,科学的思考,理性と論理で特徴付けられる現代を支配しているのであるから,ポストモダニズムはこれらをも否定するのである。従って彼等の思想は単に非科学,非理性的ではなく,極めて積極的,攻撃的な反科学,反理性的なのである。
 このように彼等は,非常に強い政治的動機から学問を見ている。この見方を彼等は「Politically Correct(PC);政治的妥当性」と表現している。彼等の多くはかっての学園騒動の時の闘士でマルキストだった。彼等は科学を含めてすべての事柄を,一つの歴史的原理を規範として評価していた。しかし,社会主義国家も,社会主義経済もうまくいかずかっての勢いを失っていった。科学的歴史主義を標榜するマルクス主義に幻滅した彼等は新たな理論的拠り所を必要としていた。それが社会正義を求めるアカデミックな運動となったのである。科学主義から離れた彼等は,"客観的真理"からも離れていった。従って彼等は「真理は存在しない。そこには時代時代の社会を支配する勢力が作り上げた真理があるに過ぎない」と主張し,真理を追求はせず,社会的,政治的により優位に立場を求めようとするのである。彼等には力の論理,つまり政治的論理しか意味がないのである。そして彼等のよって立つ基準というのは,「真理」ではなく相対的な,観念的な,極めて主観的な自己正当化された直感的主張に過ぎないといえる。彼等はレトリックを駆使して歴史学的観察,認識論的考察から彼等の主張の妥当性を示そうとしているが,通常の意味での「真理を認めない」彼等が自己の主張を正当化する理由を聞いてみたいものである。
 しかし,彼等にとってどうにも我慢のならないものが一つ存在した。それが科学そのものである。科学の理論と観測,実験事実との一致,確実な予測能力のゆえに科学は現代社会における揺るがぬ地位を与えられている。しかも科学の素養のない大部分の彼等にとり,科学は近づくことさえできない領域であった。その彼等に利用できそうなお誂え向きの理論的根拠が見つかったのである。それがクーンのパラダイム論であり,9)フランスのポストモダニズムであった。真理ではない人間の造りごとである科学を理解する必要はなくなったのである。
 コペルニクスの太陽中心の宇宙説が出されたとき,この説もそれまでのプトレオマイオスの地球中心宇宙説も共に天体観測とよく一致することは認められていた。そしてコペルニクスの説も天文学の教科書で紹介されていた。ただそれは「数学的に正しいが,哲学的には誤りである」という注釈がついていた。10)このコペルニクスの説とローマ教会公認の伝統的な宇宙説との論争については優れた解説がある。力学的にはともかく,運動学的には共にありうる見方であり,その意味でクーンと共に「当時としては(数学的には;著者注)共に正しく,哲学的にはプトレオマイオスの説が正しいと決めたのは教会である」と見ることができる。11,12,13)しかし,クーンは,この科学革命の"見方"を普遍的なものとして"パラダイムの転換"という考えを提出した。9)彼等はこのクーンのパラダイム論を,「真理というものは存在しない。科学の主張する真理でさえも真理ではない。科学の考えは人間が創り出したもので,時代の力関係で優劣がきまるものであり,従って時代と共に変化する。(動的な科学観)」という主張に利用したのである。

4.Science Warsとソーカル事件

 アメリカの大学内でこの"はやりの思想"は70年代から徐々に広がりはじめ,90年前後には科学者等の目を引くまでに広がっていた。ある生物学者は文系の学生の講義で「動物社会におけるオスの役割り」について話しを始めたところ途端に一部の学生の目つきが変ったのに驚かされた。この話題はまさに女性蔑視の男性の科学そのものだと彼等は"はやりの思想"を信ずる教授に教えられ,そう信じていたからである。この生物学の授業は一歩も前に進むことができなくなったのである。ある数学教授は学内のSTSの講義が開講されていることを知り,興味を抱き協力できることをこの科目の責任者に申しいれた。しかし,彼の申し出は無視された。不審に思った彼は,彼の大学のSTSの実体を調べた。彼によるとSTSで語られている科学というのは,科学を知らない人文・社会学者による科学批判(非難)という驚くべきものだったのである。この生物学者と数学者が協力して,この"はやりの思想"とそれを信奉する学者達の著書を調べ上げ,その考え方を批判し,彼等の出鱈目な科学,数学の濫用の実体を暴露したのが文献5)である。
 彼等はこれらの批判を彼等の学問と活動への攻撃ととり,カルチュラル・スタディーズと称するグル−プが機関誌Social Text1996年春夏合併号を"Science Wars"特集として反撃しようとした。その特集号に物理学者ソーカル教授が一つの論文を寄稿した。それは彼等の考えをふんだんに盛り込み,フランスのポストモダン思想家達の言葉を巧みに利用し,論文を引用し,またカルチュラル・スタディーズを拠点とする学者達の論文も大いに引用して,Social Text誌編集者の気に入りそうな論文を仕上げたのである。14) この論文の掲載された特集号が発行された直後にソーカル教授は別な雑誌"Linga Franca"でこの論文が"いたずら(Parody)論文"であることを暴露し,その内容がいかにでたらめであるかを解説した。
 このニュースは直ちに世界中を駆け巡った。ニューヨーク・タイムスも第一面の記事として伝えた。勿論,インターネット上での報道,激しい討論が繰り広げられた。これらはソーカル自身のホームページからアクセスできる。また東北大学数学科の黒木氏のサイトは世界でも認められているソーカル事件と関連事項についての優れたリンク集を載せている。 さらに追い討ちをかけるようにソーカル教授はベルギーのブリックモン教授と共著の"知の欺瞞;Fashionable Nonsense"で,このポストモダニスト達と彼等がグルと仰ぐフランスの哲学者達の科学,数学の理論や概念の濫用と,彼等の科学,数学についての驚くほどの無知さを執拗なまでに実例を引きながら徹底的に暴いたのである。14)
 これは非常に痛快な本であるが,同時に非常に我々の心を痛めるものでもある。真理を,従って実証的な科学と論理思考を否定することは,客観的な思考から主観的な人間中心の思考へと移行して行く。そして教養があるとされている知識人が,非科学的な,非論理的なレトリックに酔いしれて,非現実的世界へと入り込んでしまったことをソーカル達は嘆いているのである。さらにこのような"はやりの思想"は長い間にわたって,科学・数学教育に影響を与え続け,外国においても日本においてもその弊害が現われ始めているのである。

5.構成主義理科・数学教育と指導要領

 日本の現在の理科教育,数学教育を考えるとき,アメリカ教育界の流行を無視できない。その流行とはポストモダニズムと同じ流れにある"構成主義教育"である。その理念的な特徴は
「a)科学の理論や法則は科学者という人間が創造したものであり,真理ではなく,社会的に作られたもの(Social Construct)である。b)数学の「真理」も真理ではなくsocial constructである。c)いわゆる科学は時代の大勢(政治権力)によって受容されたものに過ぎない。」という主張に要約される。勿論,その他もろもろの特徴,差違等があるがここでは取り上げない。
 アメリカの構成主義教育は,科学・数学を実際に研究している学者の気付かないところで勢力を広げていた。1992年に新しい「National Science Education Standards」のドラフトが発表されたとき,科学者,数学者は具体的教育内容,教授法の過激さのみならず,その根底にある科学観,数学観と教育理念の異常さに驚き,事態の深刻さに愕然とした。このFirst Draftには「この Standards は構成主義哲学に基づく・・」と誇らしげに明記されていたのである。文献7)のHoltonの論文にはこの間の状況の簡潔な記述がある。1995年に決められたStandardsのFinal Versionからは,科学者達の反対によりこの宣言だけは引っ込められたが,教育内容は構成主義そのものであった。それは何十年にわたるポストモダニズムの学園支配(主として文科系,社会学系,教育系)と人材育成により,この思想が政府の官庁,教育機関の体制を支配するようになっていたからではなかろうか。その後制定されたStandards,各州のそれに対応するstandardsはこのような思想の流れに沿うものであった。それらに基づき教科書が書かれ,各州はそれらの教科書を採用し,「革命的な新しい教育」が至る所で始まったのである。しかし,経験的な実績にではなく,ある種のイデオロギーに基づいた教育はすぐに破綻する。実際,カリフォルニア州のサンディエゴ地区はじめ,全国至るところでの父母からの苦情が出始め,"本当の科学者,数学者"は痛烈に"新科学,新数学"を批判したのである。父母は"新しい数学教育"が導入されてから,彼等の子供達は何も学んでいないと言っている。また全国一斉のテストでも,国際的学力テストでも,アメリカの子供達の成績は急速に降下していると学者達は指摘している。この間の事情は科学者,数学者のライリー教育長官への公開書簡,15)メルツェンバーグ教授の下院での証言16)とそれに続く質疑応答17) で窺い知ることができる。
 これらは構成主義に批判的な資料である。構成主義者Lederman教授は科学教育の中心は科学の性格"The Nature of Science"18)の理解であると主張している。また,MeadowとHowleyは彼等が関係した教員再教育コースで,学習者がグループ毎にあるテーマについて,見通しをたて,お互いの討論を通して考え方を形成していく方法を学ばせた経験を紹介している。19)そのテーマとは"Psychic Power"であった。構成主義では科学もブラックマジックも同等に真実であり,"偏見"をもたずに等しく扱わなければならないのである。構成主義は非科学,非論理的思考を育てる教育なのである。
 このような訓練を受けた多くの教師が洗脳され,そして教壇に立ち,子供達の将来にとり良い影響を与えることができるであろうか。これは外国アメリカのことだけではない。文部省発行の"小学校学習指導要領解説:理科編"20)には「科学の理論は人間によって創られたものである」という科学観が述べられている。
 小学校学習指導要領自体からも"はやりの科学観"を伺い知ることができる。第2章各教科第4節理科の中で"科学的","規則性","理解","発見"という語が現われる頻度はそれぞれ1,5(5学年のみ),3,0である。「法則はないのだから発見ではなく,子供達が創るもの」というのが指導要領の基本姿勢である。

(物理教育の第49巻第4号(2001)に掲載した論文を学会の許可を得て転載)

引用文献

1)角屋重樹他編著;見通しをもって学ぶ子供を育てる理科学習,東洋館出版社(2000)p13
2)武村重和;新しいパラダイムによる改革,楽しい理科授業,(1997)No.7
3)角屋重樹;子供が科学を動的な世界像として構築する理科教育の創造,楽しい理科授業,(1997)No.7
4)Holton, G.;Science and Anti-science,Harvard Univ. Press (1993)
5)Gross,P. and Levitt, N.;Higher Superstition−The Academic Left and Its Quarels with Science,The Johns Hopkins Univ. Press(1994)
6)Koertge;A House Built On Sands
7)Gross,P. , Levitt, N. and Lewis,M. W.;The Flight from Science and Reason,The Johns Hopkins Univ. Press (1996)
8)Holton, G.;Einstein,History and Other Passions,Harvard Univ. Press (1997)
9)Kuhn,T.S.;科学革命の構造,みすず書房(1971)
10)Frank, P.; The Philosophical Foundations of Modern Physical Science, Chap. 12, (1950) Harvard University Press
11)Koestler, A.; The Sleepwalkers,pp 121~224 Part 3 The Timid Canon,Hutchinson (1959)
12)Kuhn, T. S. ;コペルニクス革命,紀伊国屋書店(1976)
13)Redondi,P.;Galileo Heretic(異端者ガリレオ),Princeton Univ. Press (1989)
14)Sokal, A. and Bricmond, J.;知の欺瞞,岩波書店 (2000)
15)米国の科学者と数学者のライリー教育長官への公開書簡;
http://www.mathematicallycorrect.com/riley.htm
16)教育改革の科学教育影響についてStan Mertzenberg 博士の米国下院での証言
http://www.tppf.org/education/perspect/mertzenberg.html
17)上記の証言に続く質疑応答の内容
http://www.mathematicallycorrect.com/moremetz.htm
18)Lederman, N. G. ; The State of Science Education: Subject Matter Without Context
http://unr.edu/homepage/jcannon/ejse/lederman.html
19) Meadow, G. and Howley, A. ; NOS: The Nature of Science and Scientific Inquiry, Education Policy Analysis Archives (1998) Vol.6, No.19
http://epaa.asu.edu/epaa/v6n19.html
20)文部省;小学校学習指導要領解説 理科編,東洋館出版 平成11年5月