マルティメディア時代の教育

北村 正直
拓殖大学北海道短期大学

#0:はじめに

 最近、「マルティメディア時代」という言葉をよく耳にする。またさらにこの言葉が教育と結び付けられて語られることも稀ではない。では「マルティメディア教育」とは何か?これはかっての「視聴覚教育」と同じで、「そんな教育はない」と私はまず答える。それは「視聴覚教育」は「数学教育」や「国語教育」、「歴史教育」などと同列に語られる言葉ではない。数学、国語、歴史等は教育の内容を表しているが、視聴覚は手段を表すに過ぎない。その意味で「視聴覚教育」も「マルティメディア教育」も存在しない。

 しかし、これらの手段は「よりよい教育」をと願う教師に取っては非常に大切なものである。その意味で「視聴覚教育」、「マルティメディア教育」も教育界に正当な立場を得ているのである。ただし、忘れてならないのは「教科教育」実現のための手段であるということである。 最近、私はインターネットの英語サイトで大学教育の教材を調査した。非常に優れたものが幾らでもあることを知った。しかし、同じにそれらは私がよく知っている欧米の大学教育がそのままインターネットに移行したと言って良いことにも気付いた。つまり、欧米の教育者たちは、教育したいことをきちんと持っていて、インターネットを利用してそれをもっと効果的に公開しているだけなのである。つまり、インターネットに載せることを考える以前にインターネット上の教育方法は、ほぼ出来上がっていたのである。


#1:日本語サイト VS 英語サイト

 今私は1956年に国際基督教大学のスタッフとなった時以来、関心を持ち、講義をしてきた一般教育としての科学、物理学の総まとめを昨年から始めた。ここ数年間に2,3度はヨーロッパに行き、文献調べも必要だと考えていたが、昨年6月、インターネットでどんな情報が得られるか試してみた。数理論理学、理論物理学の分野ではインターネットは使っていたが、科学史や科学哲学では調べたことはなかった。優れた二つの英語の電子百科事典をここ8年ほど使っていて、講義の準備には殆どそれで十分だったからである。

 まず日本語サイト(infoseek)で「科学史」で検索しとところ、2,016件のホームページ(HP)がでてきた。しかし、本格的な研究や著作の準備に役立つものは殆どなかった。次に、英語サイトで「history of science」で検索すると4,800万件をこえるHPが提示されたのである(日本の2万4千倍)。しかもその殆どが優れたものばかりで、大学の教育のサブ教材としてばかりでなく、研究の資料にもなるものが幾らでもあった。その中には「大学の公開講座」として使えるものも少なくないのである。これは私にとりとても大きなショックだった。その衝撃と同じに「私達日本人はなんと知的に貧しいのだろう。」とか「私達日本人は外国からほしい情報を手に入れるだけで、外国に知的な情報の提供は皆無に等しいのでは。」という思いが脳裏を駆け回ったのである。

 これで、私は仕事を完成させるのに多分ヨーロッパに行く必要はなくなりそうである。欧米がインターネットを通じて私のほうへ近づいて来てくれたと言えるからである。


#3:具体的な問題

 日本政府は2002年には、全ての小学校で一クラスの児童たちが一人一台のコンピュータを使って、好きなようにインターネットを通じて"遊び"、"学ぶ"ことができるようにすると言っている。これは各学校にサーバーを置き、各校でネットワークをつくり、管理することを意味する。私自身ここ2年、副学長自らネットワーク管理をしていて、これは大変な仕事で、専門的な知識なしにはできないことを身体で知っている。文部省はそれをどう考えているのだろうか。メーカーのリストラを当てこんでそちらから人材を捜すつもりなのか等といらぬ心配をしている。例えこれがクリアーされても、次に回線の問題がある。余ほど高速な回線が学校まで来ていなければ(そしてそれに見合う高速なサーバーがなければ)40人の子供たちが違ったサイトを呼び出そうとすると、1時間の授業時間中に幾人かの児童は何の情報も得られずに授業時間は終わってしまいかねない。このような自体をも文部省は考慮してはいることを期待している。しかし、これも技術上の問題でいつかは解決される問題であろう。だが、最後に残るのが、子供たちがアクセスできる教育情報がないという問題なのである。これは技術の問題ではなく、また単なる量の問題でもない。これは文化の問題であり、慣習の問題なのである故に、解決には気の遠くなるような時間が掛かると考えなければならない。


#4:講義(teaching)と学習(learning)

 日本の教育は小学校から大学まで「講義」が授業の中心である。これに対して、欧米では教育は小学校から「学習」中心と言える。教師は子供たちが参考にできる資料を準備し慣れている。教師は、彼らが学生だったとき、教科書以外のリーディング・アサイメントを山ほど与えられ、毎週千ページ、2千ページを読み、そして読んだものを批判し、自分自身の意見を構成し、それをレポートに書き上げることをしてきた。従って彼らが教師になっても、「講義」に頼らず、子供たちを「学習」を通して教育ができるのである。大学の教師について言うならば、彼等はインターネットがなくても学生に提示する補助教材や、参考図書をそろえていたのである。従って、インターネットが使えるようになったとき、それらをただHPとして載せただけなのである。勿論インターネットでできるいろいろな便利な機能をフルに利用してはいるが。

 学校教育全般を見るためいろいろインターネット上にどんな情報があるか調べてみた。以下にその結果を紹介しよう。 

 829件、216件。これらは「学校|地理」と「子供|地理」で検索して得られたHPの数であった。英語サイトで「school | geography」で1,015件、「school geography」で5,713,451件、そして「geography for children」では42,434,008件のHPがそれぞれ提示された。児童の教育の分野でも同じだった。これは数学、物理、化学、歴史、国語(英語)の科目でも本質的に同様である。ここで情報量の違いだけでなく、今一つ重要な「文化」の差に気が付く。それは「地理」を学校教育との関連で考えるよりも、「地理は子供の知的な成長にとり必要な知識である」という姿勢である。私は歴史教育のHPを捜していたとき、「history for children」としたらどうなるかと思って検索したところが、決定的な情報量の差がでてきたのである。日本では教育そのものも、「子供の知的な成長」のためというよりは、より良い成績をとり、より良い中学、高校、大学に進み、より楽な、より有利な就職をするための単なる手段が各教科教育と、親も、子供も、時には教師も考えているのではないだろうか。これが私にとっては大変な「文化の違い」映るのである。


#5:何ができるか?何をしたら良いか?

 ではこの責任は誰の上にあるのだろうか。私はただ一言「私もその一人である大学教授だ。」とだけ申しておこう。現状を嘆き、ときにはその対症療法を提案する大学教授、評論家は日本にも十分過ぎるだけの数がいる。しかし、私はこれからは、自分で何かアクションを取る人が必要だと思っている。従って、私は何をしようと考えていて、すでにアクションをとっている貴方方に何を期待しているかを述べたい。

 私はまず、

  1. 「文系学生の物理学」(または自然科学概論)のホームページをつくる。
  2. その講義をどこかの大学で実際にすること。それをCD‐ROMにとり、配布する。
    これができた後で、もしくは目鼻がついたときに、すでにインターネット上に教育的なHPを作っている
  3. 小、中、高の教師とあるルーズに組織化された共同体をつくり、小学校から大学まであらゆる教科についてインターネット教材を組織的に製作する。
 この最後の段階は、まず北海道でそれに賛同する教師達に連絡をとり、一緒に研究と実践を組織化する。少なくとも、教材のデータベースを作る。1年後には、このような動きをを一気に全国的に拡大する。

 最初に1.と2.で何を作るかが私には重要なことである。このHPの教材は1)講義の内容、2)さらに深く学びたい学習者のための資料、3)解説のついて文献の一覧を載せる。また、この全てのHPに世界の幾つかのHPへのリンクを付けておく。1)と2)の講義の内容、資料は殆ど準備されているが、対象を一般の人、つまり学生ばかりでなく、もっと深く学びたい高校生、これを参考にしたい教師達を想定すると、それに適した教材の提示法を工夫しなければならない。いろいろな図形、グラフ、コンピュータシミュレーション等は私には手助けが必要である。私には美的センスが全く欠如しているからである。


#6:ヴァージニア大学Phys109N

 研究会では、ヴァージニア大学のFowler教授の物理学コースを紹介する。これは私の計画している講義(インターネットコース)に非常に近いものである。HPアドレスは
   http://www.phys.virginia.edu/classes/109N/home.html
である。是非一度アクセスしてみて頂きたい。そこから OVERVIEW AND LECTURE INDEX にリンクすると、このコースの27の講義が、タイトルと概要と共に4ぺーじにわたって説明されている。タイトルを一つ選びクリックすると各講義の内容が詳しく説明されている。これは日本の教授が準備した講義の原稿に相当する。ならば講義に出席する必要がないと考える向きもあろう。米国や英国の大学では、学生は教科書を読んできて、授業時間中、学生は教師に質問したり、チャレンジしたりする。教師は直ぐには答えず、学生同士の討論や、教師と学生の間の討論になるようにクラスを導き、クラス全体で考えながら学習が進んでいくのである。このPhys109Nのような、歴史的、哲学的な考察の含まれるクラスは特にこのような形態で授業は進んでいくのである。学生は、図書館、インターネット上でいろいろな資料をあさり、学んで行くことができるのである。例えば、このようなコースで、ギリシャの哲学者パルメニデスとかドイツの哲学者ヘーゲルの名前が出てきたとする。学生はインターネット上の"Internet Encyclopedia of Philosophy"または"Stanford Encyclopedia of Philosophy"などで調べることができる。イギリス、ドイツ、イタリア、フランスにも役に立つ情報が幾らでもある。

 日本語サイトにはこれらに匹敵するような情報はない。マイクロソフトの電子百科エンカルタはとても便利であるが、私から見ると偏った編集方針がみられる。全てに公平なものはない。従って複数の情報源があることが必要である。エンカルタよりもっと偏るが講義に必要な知識は私が自分の講義のためにコースに付随するHPとして準備する必要があると考えている。