あとがき

 第19回北数教「数学教育実践研究会」では、札幌稲雲高等学校長である谷川幸雄先生をお迎えしての特別講演が催されましたが、その講演の中で、先生は次のように述べられていました。

人生はベクトルのようなものです。始点があり、移動条件の結果としての終点があります。
ただ、人生の場合はベクトルと違って、終点がまた、始点なのです。
 「新しい学力観と学習カウンセリング」という講演内容が、先生の教育者としての実践の過程の中、生徒との暖かい対峙の姿勢を通して、必然的移動条件として生まれたものと考えれば、この言葉の重みは計り知れないものがあります。星を散りばめた夜の街並みを見下ろしながら62段の階段を数えて毎日退勤されているご様子は、その階段一歩一歩が人生を踏みしめているようで感銘を受けたものでした。

 「始点の視点を支点にしてみたらどうか」などとパロディって前回レポートを提出したわけですが、素晴らしい講演のあとで発表するにはあまりにも……と思っていたら時間の都合で次回とのことで、ほっと胸を撫で下ろした次第です。パロディもwitに欠けるとwetになってしまい、コメディとなります。さらにコメディは、自己満足的要素が強ければ、見るものにはトラジディでしょう。そのことを痛感しながら、針の筵にいた研究会でした。そこで、もう少しましなものをと思い、今回のレポートを用意しました。しかし、元来ふざけた性根なものですから、また、してんを四点と読んだりして、なにぶん、更生不能なこの性格、なにとぞご容赦を。

 実は、先生のお話を拝聴しながら、逆にベクトルを人生になぞらえたらどうだろうかと考えました。ベクトルの終点を始点とみて、分点を溯っていったらどうなるんだろう。そこから加筆の分が始まっています。終点が集約点ならば、溯るという概念は、整理をひも解くもので、当然、まとめるという作業より楽なはずなのです。そしてほぐされた先に見えるものは、提示された問題の初期条件であり、そのエッセンスを読み取れば、解答が浮かび上がってきます。溯ることは(過去に対して)回顧することなのでしょうが、その解答のプロセスを踏襲し、始点としての移動条件を考えれば、それは未来を予測させるものでもあるわけです。人生は反省の上に成り立っているということでしょうか。

 「求点から分点を分解する」というパスカル的移動条件は、それなりに功を奏したと思っています。直線、平面、空間とベクトルを拡張していく中で、支点の捉え方が容易であり、ベクトル方程式としてのパラメータの必要性を感じないのです。ただ、ベクトル方程式を点の軌跡としてみるならば、移動条件の結果として残される轍が見えてきませんでした。やはり、未来を孕むことには限界があるのでしょうか。

 現教育課程は、数学にもマルチメディア的思考を要求しています。デカルト的思考も勿論大切なのでしょうが、それに付加する形で統合的な思考とのバランスを計っているようにも思えます。大局的に見下ろす論法は、見下す(みくだす)危険性も否めないでしょう。メディアセンターのように管理された思考をアルバムのようにめくっていくことは、果たしてどうなのでしょうか。