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1.はじめに

 今年も授業でベクトルを教えているが,ベクトルをめぐっては忘れられない想い出がいくつかある.高校時代,数学の授業で習った「矢印(幾何学的)ベクトル」と,遠山啓の「数学入門」で読んだ「数ベクトル」とがとても同じベクトルだとは思えなかった.学生時代,物理学料で相対論を勉強していた時の「反変ベクトル」や「共変ベクトル」がよく理解できなかった.高校の数学教師になってからは.教科書の「速度ベクトル」の記述が気になり,編集者に抗議の手紙を出した(これに対しては丁寧な返事がきた).最近では,高校教学サークルの懇親会の席で,「ベクトルとはベクトル空間の元のことである」と主張する派と,「ベクトルとは失印のことである」と主張する派との間で論争になったこともある.

 考えてみると,ベクトルの概念ほど各自のイメージが異なっている数学的対象も珍しいのではないかと思う.逆に考えれば,たいへん豊かな数学的内容をベクトルはもっているということになる.高校の指導要領ではベクトルを「同じ向きと同じ大きさをもった有向線分の任意の一つで代表される」もの1)として定義しているが,これがベクトルの計算はできてもベクトルの概念がわかりづらい原因ともなっている.大学では,ベクトル空間の公理を満たす集合の要素なら何でもベクトルと呼ぶ習わしになっており,これもまたあまりに広すぎる概念であり,何だか頼りない印象を受ける.本稿は,ベクトルの定義について筆者が考えていることを,思いつくままに途べたものである.率直なご意見,ご批判をいただきたいと思う.