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2.ベクトル小史

 ベクトル(vector)という単語を手もとの英和辞典2)で引いてみると.1[数学]ベクトル,動径,方向量,2[航空]方向,進路,3[生物]媒介動物,保菌生物(病原体を運ぶハエ・カなど),【ラテン語「運ぶ者」の意】などと出ている.いずれも専門用語であり,ずいぶんといろいろな意味を含んでいる.最近では理科系以外の人たちのなかでも,単に「方向」を意味する言葉として「ベクトル」という用語を使っているのを時々見かける.専門用語の羅列は避けるべきであり,できるだけ平易な言葉を心掛けるようにしたいものである.

 科学史の専門家ではないので確証がある訳ではないが,ベクトルはもともと物理学のなかで誕生し,発展してきた概念だと言われている.ベクトルは力学から生まれたと書いてある本もあるが,ベクトルの概念が確立するのは19世紀後半(すでに力学は体系化されていた)といわれている.電磁気学で有名な19世紀のイギリスの物理学者マックスウェル(1831-1879)も.論文の中ではベクトルの記法を使用していない.ベクトルの記法を最初に用いたのは19世紀のアメリカの物理学者ギプス(1839-1903)と言われている.

 ベクトルの歴史には明らかに2つの流れが存在する.1つは上に述べた「大きさ」と「方向」をもつ物理量としてのベクトルである.イメージ的には矢印で表されるベクトルである.今でも,物理や工学をやっている人はほとんどベクトルは失印で表される量だと思っている.その後,微積分と結びついてベクトル解析や微分幾何として発展し,この流れはやがて幾何学の分野で大きく開花する.20世紀になって,多様体,ファイバー・バンドル,力学系などの新しい理論が次々と生まれることになる.

 もう1つは,2つ以上の数の組として表される多次元の量としてのベクトルである.この流れはやがて20世紀の数学の花形である線形代数として形づくられることになる.ここでは行列や線形写像,ベクトル空間などの概念が重要な役割をする.

 多彩な顔を持つベクトルを誰もが共用できるように,きちんとした定義が必要になった.そのために,数学での常套手段である公理的な手法が用いられることになった.誰もが認めるベクトルの性質を公理系として認め.それらを満たすものをベクトルと定義しようと言う訳である.後で述べるベクトル空間の公理がそれである.

 ところが困ったことに,ベクトルの発見の契機にもなった速度や力がこれらの公理を完全には満たさないのである.つまり,力学における速度や力は(厳密に言うと数学的には)ベクトルではないのである.

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