☆解説☆
The Aniti-Content Mindset
The Root Cause of the"MathWars''
− 反教科内容思考:数学戦争の根源 −
by Wi11iam G.Quirk,Ph.D. (E-Mai1:wgquirk@wgquirk.com)
(注:反教科内容思考;教科内容を軽視するばかりか積極的にそれを否定する態度)
知識の継承対発見学習と"プロセス・スキル"
ライリー教育長官が数学戦争の休戦を呼びかけたとき、彼はこの争いを細部についてのつまらぬ論争と決め付けた。しかし、これ(数学戦争)は細部についての争いではない。これはアメリカの公教育の主たる使命についての争いなのである。
いかなる社会でもその継続していく力は世代から世代へ引き継がれていく共通の知識の伝統の質に依存する。アメリカの学校は英語、数学、科学、歴史や地理の基本的知識の領域につながる核となる知識を子供達に教える必要がある。しかし、"改革者"と自称する者達はこの知識の伝達という概念そのものを退け、すべての子供達が習得すべき共通の核となる知識を認めることさえ拒んでいるのである。 この傾向は数学教育において顕著である。彼等は明らかに個々の内容を避けている「州の数学基準(math standards)」を提唱している。数学は一体何処にあるのだろうか?「発見学習(discovery learning)」と一般的な内容に無関係な「プロセス・スキルス(方法に長けること)」がもてはやされている。生徒が「自ら発見する」ための活動(生徒がする経験)の例を幾つか目にすることはできるが、これらの活動に結びついた内容に関連する学習目標は探しても見つからない。
知識はあまりに急速に変りつつあり、"古いこと(old facts)"を覚える意味がないと主張する。彼等は"理解すること"を最大限にし、"優れた思考能力"を伸ぱしたいのであると改革者達は言っている。彼等を理解することも考えることも共に基本的には記憶している内容に依存しているという事実に目を閉ざしている:
- "理解すること"は、複雑な良く分かられていないプロセスである。つまり理解することとは、心(mind)が新しい情報を心に既存している他の情報と関連つけるプロセスである。
新たな知識の領域では、内容面で心が空白のときは理解することははじめの段階では非常に困難である。我々(人)が領域に特有な事実とスキルをだんだんに覚えて(脳に蓄えて)いくにつれ、理解することはより易しくなっていくのである。
- すべての専門家(その道での優れた人々)は皆、彼等自身の知識領域に非常に強く関している膨大な量の情報を記憶する必要があると考えている。彼等の領域に特有な知識ベースのおかげで彼等は領域に特有な問題について有効に考えることができる、しかしその領域の外にある問題ではそうとは限らないが。
- 貧しい、inner-city(スラム街?)の子供達が学校で多くの困難な間題を抱えている理由の主たるものは、彼等のあたま(brains)は教科内容を奪われていた(学ぶ機会を与えられていなかった)ことである。学校で提示される新しい内容を彼等が理解できるため必要な背景となる知識を彼等はまだ獲得していない。彼等が核となる知識を習得する状況を整えるならば、彼等はいつかは成功するに違いない。
知識継承を退ける彼等の立場に矛眉しないように、改革者達は"教師"と"テスト"の意味を定義し直さざるをえなかった。今や"教師"は"ガイド(案内者)"であり、"生徒の自己発見のための豊かな環境をつくる"のであって、知識やスキルを伝える(もともとの"教える"の辞典の定義)ではない。彼等は"テスト"を定義し直して"子ども一人一人がそれぞれ発見したことを見出すこと"を意味するようにした。彼等はこれを"本物の評価(authentic assessment)"と呼んでいる。
この教科内容無視の考えが国際テストでのアメリカの子供達の惨めな成績の原因である。アジアやヨーロッパ国々の(テストの)競争相手は尚知識の継承を信じている。彼等は基本的知識領域と関連する核となる知識はさしたる重要な変化はないことを知っている。彼等の子供達は今や我が国の専門職学校や大学院の定員を埋めるようになった。
E.D.Hirschはどうしてそうなったかを説明している
E.D.Hirsch教授は著書「The Schoo1s We Need & Why We Don't Have Them」の中で反内容の考えの始まりを次のように説いている:
- ほぼ100年前、教員養成校は教員の教科の習得を主に考えていた。(教える教科の)内容が主であり、教授方法は二の次であった。
- 大学(制度)が発展するにつれ、教員養成校は教育学部として吸収され、内容についての責任はなくなった。
○例えば、教員養成者はもう歴史を教えなくなった。それは歴史学科のすることとなったのである。
- 内容について責任がなくなり、教員養成者は内容の重要性を軽んずるようになり、一般的な内容に無関係な"プロセス・スキル"の重要さを引き上げた。
- 80年前コロンビア教育大学のWilliam Heard Kilpatrick教授の反内容の考えはアメリカの公教育で優位に立つようになった。
○彼が1918年の論平"Project Method"で、Kilpatrickは知識はあまりに早くするのでカリキュラムでは特定の教科を必修にしてはいけないと主張している。彼はまた、この課題方法(Project Method)をとることにより、批判的思考技術を発展させると断言している。
知識の共通のしきたりへの容赦なき攻撃
反内容哲学は80年以上に古いものであるが、それは1960年代までは抑えられていた。しかし今や500万以上の人々がアメリカの教育体制(Establishment)の中に雇用されている。これらの人の多くが反教科内容のゴスペルを受け入れているが、彼等は知識領域の"奥深く"まで踏み入るという経験をしたことはないのである。せいぜい彼等は"ジェネラリスト"(なんでも屋、多才な人)である。これらの自称"改革者"は(一方では)知識の専門家に脅かされ、(また一方では)知識を見くびることにより力付けられているのである。ここ40年にわたり、彼等は努力して知識の継承という考え方を傷つけ、たゆむことなく知識の伝統という共通の考えそのものを捨て去るような社会的変化を推進してきた:
- 彼等は我々は"多様性"を歓迎し、"るつぼ"(melting pot)を退けるべきだと主張する。共通の理解の基盤を達成するため努力するより、我々はすべての"相違"の価値を認め、決して"心の出会い"を期待すべきではない、それは心は個人個人の中にあり、個人個人は人種も、性も、年齢も、宗教も、国籍もまた性の好みも異なっているのだから(と彼等は主張している)。
- 彼等は"脱近代主義"、"破壊主義"そして"構造主義"を支持している。注1)これらはすべて異なる人々でもある間題の同じ共通の理解に到達することができるという伝統的な信念を否定している。これらの理論によれば、すべての知識は元来主観的であり、個人的な意見であり、共有することは不可能であるというのである。
(注1:構造主義はConstructivismの訳である。理科教育、数学教育では構成主義なる言葉が使われている。)
- 彼等は我々の子供達に友達だけを信用しなさい、そしてすべての他の権威を、親を含め、(驚いたことに)教師をも疑いを抱くように教えているのです。
- 彼等は教師達に生徒に知識を伝えないよう警告する。彼等によれば、各世代はそれぞれ固有の真理を発見すべきだというのである。
- 彼等は伝統主義者は子供達に西洋文化や死んだ白人の偏見に満ちた創りごとである疑わしい知識で子供達を洗脳しようとしていると主張するのである。
- 彼等は父兄達に教科が教えられる方法は"20年、30年前教えられていた方法とは全く違う"と考えるようにと告げている。父兄が一体(学校で)何が行われているか理解できないときには"専門家"である教師を信頼し、邪魔をすべきではないというのである。
- 他の人々により決められた個々の内容の基準は教師を低いレベルでの知識の"伝達者"にし、敬意を払われるべき"専門家"とはしていないと彼等は主張する。
事態を更に悪化する:優れた教師は減少しつつある
過去80年間、アメリカの教師達は内容ではなく"プロセス"を重んずるように訓練を受けてきた。しかし、これらの期間、我が国(アメリカ)は多くの献身的な教師に恵まれてきた。彼等は教えることを天職とみなし、一つまたはそれ以上の内容領域で彼等自身を育ててきた人達である。不幸なことにこのような優れた教師の割合は確実に減少しているのである:
- 頭の良い女性は今では医者、弁護士、技術者や重役になることができる。彼等は教師の侯補者のたまりに並ぶ必要はなくなったのである。
- 今日の学校の政治的な現実が徐々に理解されはじめている。非常に優れた(教師の)侯補者は何処にでもいくらでも可能性を見つけることができる。
- 学級のサイズを小さくするという"解決法"は能力の欠けた教師を急速に雇い入れることになりがちである。
○研究によれば教師の質は学級サイズよりもはるかに重要とのことである。そのことを皆さんはご存知でしょうが。
- 反内容の考え方は実力のないものには魅力的である。
○確かにそうである。これも皆さんが良くご存知の通り!
どんな解決があるか?
- 我々にはすべての基礎的知識領域で明確な学年毎の教科内容の基準が必要である。この内容は教授可能でありまた測定可能でなければならない。
- すべての授業において明確に決められた学習目標をもって、基準に基づいた授業計画をよろこんで行う教師を我々は支えることが必要である。給料を払っている人達を無視して、白分が好きなように教える権利があると主張し続けるような教師は不要である。
- 我々は明快な基準に基づいた生徒用の授業計画と密接に関連した教材を必要としている。
- すべての子どもはある量の勉強をすることが期待されていること、そして子どもとして彼等のしなければならないことは学習だということを我々の子どもたちに理解させることが肝要である。彼等の将来に向けて学習と準備の期間に社会は(1年あたり6千億ドル以上)負担しているのである。もし彼等が学ぶことを拒むなら、彼等は社会を編していることになる。
- 我々は最新の情報技術の能力を利用し、かつ知識継承のプロセスを再編すべきである。これは(その技術の欠けた)教師を罷免させるという意味ではない。それは特定(個々)の授業内容の教育を支援するインタラクティブなソフトウェアの開発が必要という意味である。それは教科書の論理的な進化として考えるべきである。
- 最後に、改革者達の計画に密かに反対している一群の隠れた者達を組織化し、励ます必要がある。彼等はその(改革者の)過ちをしっていて、冷ややかに見て沈黙しているが、"間題児"またはそれ以上に悪いラベルを貼られたくないだけである。彼等の多くは状況は絶望的だと見ている。
さてその次は?
- The Truth About The Revised NCTM Standards **NEW
- Searching For The Truth About The TIMSS 4-th Grade Math Test
- Memorize Multiplication Facts? Cheney - Yes, Romberg - Abstained
- The Truth About The NCTM Standards
- The Truth About Math Standars and Info-Age Math Reform(Home)
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