☆本文☆

Kitamura's Comments On
The Aniti-Content Mindset
The Root Cause of the"Math Wars"

− 北村の「内容無視の考え:数学戦争の根源」の解説 −

 1989年に全米数学教師協議会(NCTM:National Council of Teachers of Mathematics)は新しい教育理念(哲学)に基づいた数学教育の基準(Mathematics Education Standards)を公表した。多くの州の教育委員会もこの基準に沿った基準を作り、さらに郡レベル、市町村レベルでも新しい数学教育が始められた。

 中でもカリフォルニア州はこの新しい教育の展開の先陣を切っていた。ところがアメリカ全体のテストで、また国際的な学力試験でカリフォルニア州の子どもたちの成績は惨めな結果しか出なかったのである。父兄もそれに気付きはじめた。州の大学の数学教授達も新たに入学してくる学生達の計算能力を含め、基本的な数学、科学の学力の急激な低下に驚いて調査を始めた。新しい数学基準に基づいた数学教育は理数系の教授の目にはとんでもない代物と思えたのである。父兄達もこの新しい教育、特に数学教育は彼等の子供達から将来を奪ってしまう怪物のように映った。父兄達はカリフォルニアからこの新しい数学教育を追い出すために立ち上がった。そのようにして結成されたのがMathematically Correctというグループである。カリフォルニア州は新しい哲学に基づいた数学、科学教育を中止し、伝統的な教授法をも取入れた基準を作り"新たな教育改革"を始めたのである。これは父兄と大学の研究者と世論の勝利と言えるであろう。

 ところが、数学・理科教育のこの"新しい哲学"は多くの教員、教育学部の教授達の間に浸透していて、しかもアメリカの教育省、NSF(National Science Foundation)等の政府機関、その他教育団体の幹部、スタッフの間に深く浸透していたのである。カリフォルニアの数学教育から始まり、一方においては科学者と数学者、及び父兄達、他方は教育学部の"革新的を自称する"数学、理科教育学者や政府機関や教育団体との間で全米を巻き込む論争、政治的争いが始まり、未だにその争いは続いている。これが"The Math Wars"と呼ばれているものである。

 この小論の著者W.G.Quirk博士は大学教授をやめ、今は数学教育の正常化に努力している若手の数学者のようである。この小論では新しい教育とは内容よりも教授法を重視する立場にあることを批判している。それは新しい哲学は科学や数学の真理は真理ではなく時代時代によって変る(社会的)約束事としてしか認識していないからである。したがって伝統的な教科内容は軽視し、生徒同志が数学的知識や科学的知識を創り出すような教育を目標としているからである。

 数学教育においては決まりきった掛け算表(つまり九九)を丸暗記したり、計算練習をしたりするよりも、数の概念を作り出すことを学び、数学の考え方を身につけることの方が大切であると新しい教育の提唱者達は主張するのである。計算能力はスーパーでの買い物ができれば良い。アフリカの民族では小数、分数はなくすべて数えることのできる数(Whole Numbers)である。実生活では大体の数が分かれば良い。せいぜい小数点以下一桁まで使えば良い(例えば円周率は3.1もしくは3で充分である)。新しい数学では、ピタゴラスの定理は方眼紙の上に三角形を描き、各辺の上に立つ正方形を描いて一番大きい正方形の面積を方眼紙の桝目を数えて見積り、他の二つの三角形の面積も同様に見積ってから加え合わせ、その大小を比較しそこから子供達に討論して結論を創らせる(construct)のである。そこでは厳密な論理的思考は必要とされていない。円周や円の面積を一寸見積るために円周率を3.1もしくは3とするのでなく、それ以上の精度はたいして重要でないという認識に立っているのである。このような考えの教育では、数学や理科の教科内容はさして重要ではなくなるのである。Quirk氏はそのような教育をこの小論で批判しているのである。

 これはアメリカのことであるが、日本でも同様のことが起きているのである。日本でもこの新しい教育が"構成主義"理科教育と称して、文教関係の一部の官僚(専門官)や多くの教育系大学の学者の間に流行している。そしてついに文部科学省の「小学校学習指導要領:理科」の基本的立場とされているのである。これは私、北村正直の個人的な見解ではない。文部省発行の「小学校学習指導要領解説:理科編」に堂々と宣言されているのである。

 また、アメリカで教員養成校から大学の教育学部に変るにつれ、教科内容の教育は教育学者の手を離れるようになったことは、日本でも理科教育の教授の中には教科内容に無関係に教育理論をもてあそぶ者が現われるようになったことを思い起こさせるものである。特に文部科学省の教科調査官から教育学部の理科教育部門に移籍した人の中には「構成主義」に立つものが多いことは注目すべきで事実である。何故日本でもこの様な「新しい教育哲学」が生まれたのか「社会学的な研究(Social Studies of Science Education)」をしてみたいものである。

 過去はともかく、日本の教員養成教育にアメリカの出来事は大きな教訓を与えてくれる。それは小学校教員養成過程には数学教育、理科教育を外してはならないということである。それは何も大学入試に数学、理科の科目を増やすことを主張するのではない。高校で履修することを奨励し、高校で履修しなかった学生は、大学の単位にはならないが、大学で余分な受講料を納めた上で、補講を受ける機会を準備することである。現状では教科内容を理解できない、したがって教科内容を教えることができない教員を大量に世に送り出すようになっている恐れがある。

 良い教科教育をするには教科内容を理解した教師が必要である。科学を否定し、教科内容を軽視する教科調査官を見過ごしている文部科学省が教師養成機関である教育学部の将来計画を立てることができるだろうか? 実際、教育系大学、特に小学校教員養成コースの科学、数学科目は背筋が寒くなるほど貧困である。教育系大学の教育の見直しは、教科内容に詳しく、しかも実際に研究に従事している科学者、数学者の密接な協力が必要である。

 アメリカにおける最近10年ほどの科学教育、数学教育における出来事は他人事ではない。我が国においても全く同じ奇妙な思想が教育学界、教育行政の現場、特に中央官庁である文部科学省において流行しているのである。(もしくは、文部科学省は事の重大さを理解できない、判断力の欠如している者達の集りなのかもしれない。)

 ☆本文☆