おわりに

 情報教育ネットワーク形成推進事業」により、2〜3年後には道内の各校にインターネットが導入される。現実的に見た場合、導入されたときに何を、どう行うべきなのか? お決まり的に学校のホームページを開いてアピールしたり、他校との(または海外との)交流を行ったり...。 本校にも試行校として導入されたが、いまだに学校のホームページは開いていない。その意義を私自身が疑問に思うからである。学校全体としての総意として開くのであれば価値はあるかもしれないが。

 先に見たように、教師自身が(つまりは私自身が)必要としているのは「教科の枠内での活用」というのが、大きいといえるであろう。しかし「教科の枠内での活用」といっても、数学の一斉授業という枠の中で、生徒自身がインターネットを活用して学んでいくというのは将来的にもあまりありえないであろう。他の実践例を参考にしても、インターネットを導入してみての一番のメリットは「先生たちの情報収集への貢献」をあげているところが多い。「教科の枠内での活用」というのは、教師自身の情報源としての利用であり、他の実践例を参考にすることによる自分自身の資質の向上とも考えられるのではなかろうか。「ネット上で得た情報は人を作る」。インターネットの活用の第一歩は、教師自身の研修から始まると私は考える。

 教師自身の研修という視点からいえば、教員のメーリングリストや教育の会議室のような教員同士の交流・連携の場を設けるということは大変価値があるのではないだろうか。「時間や場所による制約」の解消 、「研究テーマ依存」の研究グループの可能性、日常的なコミュニケーションの育成など価値は高い。また、今年の北数教の活動方針に盛り込まれている「地方の研究組織の活性化」という観点からいえば、メールを通した日常的な交流やテレビ会議等を利用しての研究会同士の交流が可能である。設定された予算の意味合いがよく分からないところは、メール等の設定でぜひとも活用していただければと考える。

 このように、インターネットの教員側からの可能性はかなり大きいものと予想され、普及も案外早いかもしれない。周りを見渡してみても、個人的にネットに接続している教員はかなり多くなってきている。それは社会全体のなかにおいて、既に市民権を獲得している現状から見て当然と思われる。

 そうした状況下において、生徒の立場に立って考えてみよう。生徒が授業の中でネットを使って学ぶというよりは、日常的に自らが必要とする、または興味・関心のある情報を取得していくことのほうが自然な流れではなかろうか。「脱画一教育」「個性重視の教育」をうたってみても、無理に授業の中に持ち込んでもうまくいかないであろう。何故なら、一斉授業の中ではネットの持つそうした特性、つまり「主体性や創造性を育む教育」は生かしづらいからである。小・中学校の授業の実践例でも、総合科目的な授業例や課外活動的な実践例が多いが一つの科目の中での実践例はとたんに少なくなる。高校ではその傾向は更に強い。それは至極当然なことであろう。

 では、どのような形で「脱画一教育」「個性重視の教育」とネットとの関わりを考えていくべきか。理系離れが進む中、飛び級制度の導入など、制度的にも画一性が崩れてきていることを考えれば、今後そうした流れに拍車がかかっていくことは明白である。実際問題として、生徒の興味・関心の多様化にあわせた授業などなかなか大変である。一斉授業という形態や、入試との関わりなど様々な制約がある。少し脱線して話そうと思っても時間的な制約もある。そうした、授業中では補いきれない内容の補完としての役割が、最も現実的ではなかろうか。そのとき、自らの「学び」の中に主体性や創造性を持たせる役割を、教師は持つ必要が出てくる。興味・関心を持たせるきっかけや、それを主体的に伸ばしていく必要がある。教師が「知識伝達者」から「探求学習のための支援者」となる必要が出てくるのである。ビル・ゲイツは
   教師の役割は生徒に対していかにしてモチベーションを与えられるか
と述べている。

 「数学のいずみ」は、そうした生徒の興味・関心を主体的に伸ばしていくことを望んでいる。生徒の興味や能力、人的・地域的制約の除去。そうしたことをネットは可能にしてくれるからである。まだ、到底そこまで達成できるものとなってはいない。そのためには多くの連携が必要であり、また同じような趣旨のプロジェクトがあればそちらに協力しても、更には吸収されてもよいと考える。組織自体の重たさもあろう。管理者不在のインターネットで、そうした試みがうまくいくかどうか。ネットの将来を危惧するのと同じくらい期待と不安が入り交じっている。

'97.8.30 早 苗 雅 史