毎週水曜日定期発行
Weekly Mathematics Magazine
《数学通信》
MAT-21 1992.11.25(Tue)

★何故,我々は学ぶのだろうか?〜大河内先生の場合〜★

勉強が面白いか?と問われれば正直面白くないと答える.それは当然の事であるし,自然の答だ.では,どうしてその面白くもない勉強をしているのか?そう問われたら君達は何と答える?返答につまるようでは情けないね.【学ぶ理由】もわからずに毎日学校で授業を受けているような,そんな毎日はそれこそつまらないではないか!!!

真面目に考えてみてもらいたい.どうして学んでいかなければならないのか?それこそ真剣に考えてもらいたい!!

言っておくが,答は1つではない.一人一人にそれぞれの学ぶ理由があってもいいし,それが当然の事である.

今日は俺が俺なりに見つけた【学ぶ理由】を話してあげよう.4組の君達は既に”三青庵”で一度聞いていると思うが,気持ちを新たにもう一度聞いてもらいたい.

俺が,俺なりの【学ぶ理由】,【学ぶ目的】を見つけたのは,高校3年の後半だった.今でもあの衝撃は忘れられない.悔しいくらいに,自分自身に呆れたし,それ以上に自ら学ばねばと痛切に感じた.

それは,ちょうど政経か倫理の時間だったと思うが,授業でマルクスの資本論の話をしていた時だ.資本論の話をしながら,先生がマルクス主義について授業を進めていく.授業の最後の方にきたときに,俺は,まさにマルクス主義の過ちに気が付いた.マルクスは,社会体制は,原始共産制から封建制へ,そして資本主義を経て社会主義に,更に共産主義に進み,その先には再び原始共産主義に至ると考えたわけだ.しかし,俺はその話の中にマルクスの考えの間違いを見つけた.資本主義から社会主義,共産主義はまあいい.しかし,その先に原始共産主義があることが大きな間違いだと思った.それだけではない.マルクスは余りにも人間を純粋に捉えすぎている.資本主義から社会主義へなどそうたやすく移行できるものではない.そんなことをマルクスの考えの中に,誤りとして指摘したわけだ.俺自身が.

そのことに気づいた俺は,もううきうきして仕方がなかった.歴史上に名を連ねる一人であるマルクスの思考の過ちを,俺が,17,8の名も無き高校生に過ぎない俺が指摘するんだと考えるのだから無理もない.ひょっとして世界を変えるのではないかとさえ思えた.もちろんその当時はだよ.次の時間まず真っ先に先生にこのことを話そうとわくわくしながら次の社会の時間を待っていると,とうとうその社会の時間がやってきたではありませんか.先生が教室に入って来る.礼をする.授業が始まる.いよいよ俺が新しい時代を切り開くんだ.胸が高鳴るのを押えながら,手を挙げて質問しようとすると,なんとその社会の先生は,次のように話を始めた.「昨日話したマルクス主義は,その後その論理に誤りがあることを指摘され,現在は修正マルクス主義として社会主義国などの国家運営に大きな影響を与えている.」なんと,なんと,更に先生は修正マルクス主義とマルクス主義との違いつまりは,マルクス主義の誤りを話してくれたのだ.それはまさに俺が気が付いた事そのものだった.

 俺は愕然として目の前が真っ暗になるようだった.俺が昨日気が付いた誤りは,既に修正されていた.しかも,マルクス主義が発表されてすぐに.17,8の血気盛んな年頃の,夢多き少年の未来への飛躍となる第1歩は,物の見事に撃ち破られたことになる.

しかし,落ち着いて考えて見れば当然の事かもしれない.いや当然の事だ.17,8の未だ世界の全体さえをも見ようとしていない青二才に,世界を変えるような力と発想があるはずが無い.いや,あるのかもしれないが,この程度の事は誰かが気づいているはずだ.それに気が付かない自分自身の愚かさ.先生は,俺の事など気づかずに(当然ではあるが)おかまいなしに授業を続ける.俺は愕然となりながらも,頭を冷やしてもう一度考えてみる.マルクスがマルクス主義を唱えて何年が経ったのだろうか?昨日聞いた俺でさえその間違いに気づいたのだから・・・・・.

このとき,俺は自分の無知と,時代の進歩に気が付いた.自分自身が未だ何も知らないことを,俺などにおかまいなしに確実に時代は進んでいることを.更に,誰かがこの時代を見つめていないと個人の意志で世界が動いてしまうことも知った.ナポレオンしかりヒットラーしかり,世界を動かしたこの2人も,結局は個人的な意志の力による物だ.「世界を見つめ,みんなのために」ではなく,「世界を見つめ,自分のために」戦争を仕掛けた.真面目な話,誰かが,できればみんなが世界を見つめ,時代を見つめ,時代の行く末をみとどける姿勢を持っていないと,世界は誤った選択をしてしまう.そして,一度誤った選択をしたら,今度はやり直しのチャンスはない.第1次世界大戦,第2次世界大戦,この2つは世界が誤った選択をした結果である.このときは,まさに不幸中の幸い,やり直しのチャンスが与えられた.でも,3度目はきっとやり直しのチャンスは無いだろう.絶対に無いと言ってもいい.我々人類はそれ程までに愚かなのだから.もし,やり直せるチャンスがあるとしたら,それは人類のやり直しではなく,地球のやり直しであって,おそらくそこには人類は含まれていないだろう.

だからこそ,我々は学ばねばならない.そう,学ばねばならない.義務なのだ.

これが,作り話でもなんでもなく,本当に今から14年前の高校3年生の頃に俺が見つけた学ぶ理由だ.それまでは,勉強することがあまり好きではなかった.(もちろん,今でも勉強することは好きではない.)しかし,この答えを,目的を見つけてからは,あらゆる事に意欲的に取り組もうとする姿勢はできた.自分で始めた学習は,最後まで投げ出さなくなった.そして今でも俺の心のどこかに,いつか俺が世界を変えるんだ,という野心があるのかも知れない.恒に挑戦的に,そして,恒に批判的に物事を見ている自分自身がいる.

しかし,それぐらいの意気込みがあってもいいと俺は思っている.これから成熟期を向かえるのだから.(君達ではなく,この俺がだよ.)

君達も,成績を上げたいとか,進学したいとか,いい学校に行きたいとか,そんなことだけのために勉強していても面白くない.もっともっと大きな夢と希望を持って,そして,大きな目的を持って自ら学んで行けば,必ず道は開ける.君達なりの【学ぶ理由】【学ぶ目的】を見つけて,将来に向けて努力を続けて欲しい.

尚,くれぐれも行っておくが,いま話したことは,俺が見つけた,俺の学ぶ理由だ.君達が学ぶ理由ではない.絶対に他人の理由を自分の物にしてはいけない.自分の学ぶ理由は自分自身で苦労して苦労して苦労して本当に苦労して見つけなければ,学ぼうという姿勢が出てこないのだ.他人の理由を受け売りすると,別の奴にもっともっともらしい理由を聞かされると,「ああ,そうかな?」と思って,そちらに傾いてしまう.それでは自分よりすごい奴に出会う度に学ぶ目的が変わってしまう.それは変だし,それではいけない.しかし,自分自身が苦労に苦労を重ねて見つけた学ぶ理由は,たとえ自分よりすごい奴にそいつのもっともらしい理由を聞かされても,「それがどうしたと言うんだ.俺はおまえが想像もつかないほどの苦労をしてこの理由を見つけたんだぞ!」とつっぱねる事ができる.これが,将来そいつを越えるために必要な要素になる.

だから,今度俺が何故学ぶのかと尋ねたときに,いま話した俺の理由を言わないようにしてもらいたいものだ.

いかがかな?君達が普段なにげなく見過ごしてしまっている日常の生活の中に,君達の未来を大きく変えるような出来事が隠れているし,君達の未来を変えるように事実が落ちている.あとは,それを君達が見つけるか見つけないかに関わって来る.大切なことは毎日の姿勢だ.毎日の意気込みだ.普段から気持ちで負けるようでは,いざ大切なときに力はでない.誰だって毎日頑張ることは辛いし,辛いことから逃げだしたい.それは俺も同じだ.でも,いま逃げ出すことは簡単だけれど必ず将来,いま以上の辛さが訪れるに違いない.だから,だからいま頑張っておかないと.

Printed in Tounn.1992.
Written by Y.O^kouchi.1992.
Copyright 1987,1992 MAT Inc.
MAT is Mathematics Assist Team Corporation.