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Weekly Mathematics Magazine
《数学通信》
MAT-64 1993.11.10(Wed)

★平等とイコールとは違うよね!!★〜後編〜

でも,一つ,たった一つだけではあるが人間に【平等】なものを見つけた.そうきっとたった一つだけしかないであろう【平等】である.

ただ,その【平等】なものも,厳密に突き詰めていけば【平等】ではないのかも知れない.

その【平等】なものが何であるかと言う話の前に,もう少し我々の生活を振り返ってみよう.

例えば,我々の仕事もそうである.給料も違えば,それ以上に仕事の中身が違う.同じ職場で,同じ仕事をまかされていてもその仕事の中身には必ず個人差が生じる.それを仕事に対する熱意という言葉で,片づけてしまえばそれまでなのだが,必ず違う.

教員の仕事もそうである.

誤解しないで欲しいのだが,別に俺はこの場を借りて溜まっている不平不満を,君達にぶちまけているわけではない.そんなもの,いつでも堂々と言える訳だし,いちいち不満を言うのに気を使うほど職場で小さくなっているわけでもない.今俺は自分自身に自信があるし,それ以上に仕事が面白くてたまらないのだから,そんなことを,それこそ不平不満を君達にぶちまけなければ気持ちが納まらないほどふさぎ込んでいるわけがない.

教員は皆教員である.当たり前か.つまり,教員の中に上下の関係はほとんどない.管理職と平教員という立場の違いはあるが,平教員の中には立場的な上下関係はない.それでも,同じ立場として仕事をしなければならないはずなのに,年齢や,意識によってその仕事ぶりは異なる.不思議だよね.同じ仕事をしても,年齢で給料が異なるし,同じ年齢で同じ給料でも,その仕事ぶりは意識しだいでまったく異なる.【平等】な立場のはずなのに・・・.そう,確かに【平等】というのは立場であって,誰も仕事の中身や,給料が【平等】だとはいっていない.それはよく解っている.

でも納得はいかないよね.そうでしょう?立場が【平等】だというからには,当然同じように物が言えるはずだし,また,言わしてもらわなければならない.ところが実際は,どんなに良い意見でも,若いから,教職歴が浅いから,等々,なんだかんだと理由をつけられて意見を聞いてもらえないことの方が多い.結局,教育職は年功序列の公務員の世界と本質的には変わらない.綺麗なのは建て前だけである.

どこの世界でも同じである.が,それは,実際に働いてみないことには判らないというのも事実である.残念だけれども.

そんな世の中にあって,たった一つだけではあるが人間に【平等】なものを見つけた.そうきっとたった一つだけしかないであろう【平等】である.ただ,その【平等】なものも,厳密に突き詰めていけば【平等】ではないのかも知れない.

それは,《時間》である.ただ,《時間》と言ってもそれは人間の寿命ということではなくて,人間に,いや,地球上の生物全てに与えられている,1日という時間の長さのことである.

《時間》が人間の寿命として使われてしまうと,それは絶対に【平等】ではない.俺のように,惜しまれるような人間は必ずと言っていいほど早死にするし,鬼や悪魔のような極悪非道な人間は,ほとんど長生きをする.こんなのではとても【平等】とは言えない.だから,《時間》が表す物は,人間の寿命ではないし,そうあってはならない.

でも,不公平だよね.人生80年と言われながらも,生まれてすぐに死んでしまう赤ん坊もいれば,中学,高校という人生の中で一番輝いている時期に,不幸な事故にあって死んでしまったりする者もいる.あるいは,30,40という,働き盛りに家族を残して死んでしまう者もいるし,70,80になっても病に体を犯されながらも,病院のベットの中で苦しみながらも生きていかなければならない者もいる.

何も,生きていることが必ずしも幸せとは言いきれないが,一応,冷静に長い目で人生を考えてみれば,死んでしまうよりは,生きていた方が幸福といえるし,生きれさえいれば何とかなる事ばかりである.

ここで,我々に【平等】に与えられた物,《時間》とは,1日が24時間だという事だ.こればかりはどんな立場にある者も,どれほどの権力者も,大富豪も,例外なく誰もが24時間でしかない.こればかりはいくら大統領命令でも,たとえ,数百億という大金を積もうとも誰からも貰えないし,誰も譲れない物である.

もちろん,その後については必ずしも【平等】ではない.1日が24時間という事は確かに【平等】ではあるが,その24時間の使い道というと,立場,権力,財産等々さまざまな要因で人それぞれの使い道がでてくるし,当然そうなれば【平等】という事はありえない.同じ1時間でも,読書に使える1時間を持つ者と,汗水たらして今日の飯を喰うために働かなければならない者とでは明らかに差がある.同じ1日でも,自分の肉体を酷使して,しかも,安い給料で働き続け,クタクタになって終える者と,優雅にクルーザーなどに乗って心身ともにリフレッシュができる者とではまったくといっていいほど違う.そんなのでは,とても【平等】とはいえない.

本質を比較してみると,《時間》も,《立場》もそんなに変わらないのかも知れない.たとえ《時間》が【平等】と言われながらも,1日が24時間という事が【平等】と言われながらも,その後の使い道に必ず差がでてくるし,1日が24時間という事が【平等】という事以外は何も【平等】ではない.同じく《立場》も,確かに立場が【平等】という事以外は何一つ【平等】ではない.

確かに,対外的に,職業を聞かれたときは,年齢,給料などにまったく関係なしに,教員と言えば,世間はそれなりに納得する.そんなものである.そして,それを【平等】といえば【平等】といえなくもない.

そう考えてしまったら,結局のところは我々には【平等】と言う言葉はあるが,実際に【平等】なものは何一つないというのが結論といえる.そして,そう考えてしまったら余りにも世の中は無情だなとも感じる.

生きていく事は決して楽しい事ばかりでもないし,生きていく事は,どちらかといえば悲しい事の方が多い.そして,その中でいかに笑って生きていくかが人生の面白さかも知れないし,俺はそれが人生の楽しさだと思っている.

【平等】でありたいと願っていても,実際は何一つ【平等】ではない.

でも,だからと言って,人生をふてくされて生きていたのではそれこそもったいない.現実は現実,事実は事実として受けとめて,今自分が何をなすべきかを考えて生きていけば,必ず良い一生を送れるはずである.

【平等】とイコールとは確かに違うけれど,大切な事は自分の気持ちの持ち方ではないだろうか?

不平不満を言うだけならばいくらでも言える.だが,それだけでは,淋しすぎるし,悲しすぎる.もっともっと前向きな生き方ができるはずであるし,もっと自分を見つめた,自分をとらえた生き方ができるはずである.せっかく生まれてきたのである.楽しく,面白く生きていこうよ.

人は所詮理想世界では生きていけないのである.それが人と神との大きな差である.ならば,その現実世界でしか生きていけないのであれば,その中での生き方を探せばいいのである.神にすがっても無駄である.神である俺がいっているのだから間違いない.自分の人生である.ほかの誰の人生でもない.そのことを忘れるな. 〜End

見学旅行の疲れから,勉強に集中できない!などと甘えたことをいっている軟弱者はいないだろうな?これからは受験に向けてのダッシュの時期だ!しっかり俺についてこい!!!

Printed in Tounn.1993.
Written by Y.O^kouchi.1993.
Copyright 1987,1993 MAT Inc.
MAT is Mathematics Assist Team Corporation.