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Weekly Mathematics Magazine
《数学通信》
MAT-63 1993.10.27(Wed)

★平等とイコールとは違うよね!!★〜前編〜

「A=B」とは,「AとBとが等しい.」と言う意味で解釈するが,実際問題我々の生活の中にどれほど,”等しい”,ことが存在するのだろう?今回はこの問題について少し意見を述べてみたいと思う.

現在の社会においては,人は【平等】として扱われているというのが我々の常識となっているが,いったい我々はどれほど【平等】なのだろう?

時代が進むにつれて人は【平等】でなくなっていくような気がしてならない.そう感じる俺がおかしいのだろうか?いや,そんなことはないはずだ.事実,我々は【平等】という言葉にごまかされている.いったいどこまで【平等】であれば【平等】といい,どこまでが【平等】の範囲なのだろうか?

高校時代,社会の授業の中で1つ疑問を感じたままいまだに解けない疑問がある.宗教の問題である.

長い歴史の中で,必ずと言っていいほど同様の展開をする事実がある.宗教の広がり方である.

キリスト教も,仏教も人は神の下では【平等】であると解く.ところが,その思想が為政者には受け入れられず常に迫害の道を歩み続けた.しかし,熱心な信者の,迫害に屈しない抵抗の末,為政者は,必ず迫害してきたはずの宗教を国教として認め,国を治め易くしようとするし,事実そうしてきた.

そうすると,いままで唱えてきた,神の下での【平等】という解釈が歪められていく.本来ならば,国王であろうが,農民であろうが,奴隷であろうが,人である以上,キリスト教の信者(仏教の信者)である以上神の下では【平等】であるし,同じ教会で同じ場所で礼拝をするのが本当であろう.たとえ身なりが立派であろうと,貧しかろうと,神に祈りを捧げることに,その気持ちに貴賎の差はない.そしてそれが神の教えのはずであろう.

ところが事実は違う.国王はたとえば教会に礼拝にいけば,神の前では【平等】であるといわれているにもかかわらず,実際は国王専用の礼拝席が用意されたり,特別待遇を受けたりする.これでは本当に【平等】なのだろうかと疑問が生じる.

何もキリスト教に関してだけではなく,仏教でも同じである.人は弥仏の前では同じであると説きながら,実際には【平等】でない.坊主は坊主で階級をつくり,偉い坊主と偉くない坊主がいる.こんな階級をつくる一方で,【平等】を説く.もちろん坊主どもの言いぐさは,人は弥勒の前で【平等】であって,俗世でも【平等】といっているわけではない,などと屁理屈をこねるに決まっているのである.自分達が自分達を【平等】に扱わないで偉そうに【平等】を説くその坊主の姿は,まさに詐欺師のそれと似ている.

それを,宗教の堕落,牧師の堕落,坊主の堕落と一言で片づけてしまえばそれまでなのかも知れないが,宗教の布教が目的ではなく,金儲けが目的と言えばそれまでなのだが,俺の気持ちの中では納得が出来ないでいる.

確かにそんな形で,宗教が堕落していき,政治と結ぶ付き始めたのは,かなりの信者を抱え込み,宗教が安定期に入ってからのこととは思う.創始者や,その思想に感銘を受けて,少しでも多くの人に広めたいという純真な気持ちで布教活動をした人々の時代は,俺が感じた疑問など入り込む余地さえなかったかも知れない.

しかし,時代が進み,創始者の遺志が歪められ,宗教が金儲けの道具として成り下がり,為政者に治世の目的として使われる道具と成り下がってからは,創始者が唱えた理想など粉々に砕け散り,まさに堕落した金儲け主義の道具になってしまった.

そんな宗教の姿しか俺はみていないからだろう.社会科で宗教の話を聞く度に,いや,聞けば聞くほど,心の中から湧き出る疑問は大きくなるばかりだ.増え続けるばかりだ.

だからかもしれない.宗教に対しての敵対心すら抱いているのは.宗教で救われなどしない,人は決して救われないのだと信じている.

さて,話を今の時代に戻してみよう.我々はいったいどれくらい【平等】といえるだろう?

確かに我々は日本国憲法の下に【平等】と言われているが,実際は【平等】ではない.信仰の自由,職業選択の自由,言論の自由等々いろいろな自由が保証されているが(本当に保証されている訳ではなくて,表現上,建て前上である.),それはあくまでも”自由”と言うだけで,決して【平等】を唱っているわけではない.以外と勘違いし易いが【平等】と,自由は違う.

たとえば法の下に【平等】と言われながらも,実際は何一つ【平等】ではない.今の世の中,理想などありはしない.同じ犯罪を犯しながらも,金持ちで,社会的な地位のある人間と,金がなく,住所も不定の浮浪者とでは,必ずと言っていいほどその判決に差がでる.あってはならないことだとは思うが,もし,そう言うシチュエイションを設定すると絶対にそうなる.これは確信をもって言える.

なぜか?金持ちだったり,社会的地位があったりすると優秀な弁護士が雇えるし,また逆に,有名になりたいという野心を抱いた弁護士が何人も名乗りをあげる.片や,浮浪者相手では,国費であてがわれる弁護士であるし,そんな弁護士に当然のことながら(全員を指しているわけではないが),野心があろうはずがない.

裁判というのは,罪の軽重は弁護士の腕の差となって現れてくる.であれば,同じ罪を犯しながら,刑が違うということは,我々日本人は法の下にも【平等】に扱われていないと言うことの証でもある.

何も裁判だけではない.我々は,この世に生を受けたその瞬間からもう【平等】でない.金持ちの家に生まれるか,そうでないか,両親が健在は家に生まれるか,そうでないか,愛情あふれる親の家に生まれるか,そうでないか,そんなことを考えていくだけでも何一つ【平等】なものなどないのじゃないかと思えてくる.

当たり前のことである.当たり前のことであるが,この世の中はやはり無情なのだろうと思う.

【平等】でありたいと思いながら,【平等】に扱われたいと思いながら,実際は何一つ【平等】ではない.金も,地位も,名誉も,知恵も,体力も,勇気も,そして,愛情も・・・.

もちろんなにもかもまったく【平等】と言ってしまえば,それは人間ではなくて,ロボットになるのだろうけれども.流れ作業の中で,ベルトコンベヤーに乗って規格品を組み合わせて造られる機械と同じになってしまう.それではもはや人とは呼べない.人間は,一人一人が違うからこそ,面白いのだろうけれども・・・.

そう想いながらも,何か割り切れない想いにとりつかれる.

難しいのである.【平等】とは理想論である.現実論ではなく,完全な理想論なのである.

そして,人は理想世界で生きていけるほどに高度な精神をもっておらず,所詮は俗世と呼ばれる現実世界でしか生きていけないひ弱な,軟弱な生き物なのである.

感情に翻弄され,欲に心を奪われ,張らなくてもいい見栄を張り,つまらないわだかまりに一喜一憂し,憎しみを抱え,エゴをむき出しにして生きていく哀れな生き物なのである.

そんな人間に【平等】を求めるのが,【平等】を説くのが無理なのかもしれない.

そう思う.

そんな現実に中で,平等なものを見つけることができる.それは本当にわずかなものであるが,本当にわずかな意味での【平等】であるが・・・.

一つ,たった一つだけではあるが,人間に【平等】なものがある.そうきっとたった一つだけしかないであろう【平等】である.

ただ,その【平等】なものも,厳密に突き詰めていけば【平等】ではないのかも知れない.

その話は,また次号に.

〜続く〜

Printed in Tounn.1993.
Written by Y.O^kouchi.1993.
Copyright 1987,1993 MAT Inc.
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