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第3章 破壊の数学
―――――― 無限のトリック


 S市中央図書館。ホームズの週末はきまってこの図書館で費やされる。

 閲覧用のレザー張りの椅子にどっぷりと腰を下ろし、静かに目を閉じる。微かなインクの乾いた臭いが鼻腔を擽り、張り詰めた空気が快い。何よりも思考を蹂躙する電波がないのが嬉しい。館外では、携帯電話から発信される精査されていない電波情報が交錯し、垂れ流しの汚物のように空間を埋め尽くしている。所構わず鳴り出す着信音と妙な日本語を駆使し応える子達。官能は過敏に反応して許容量を超え、耐えがたい苦痛となるのである。そんな騒音から遮断されたこの閉じた空間は彼に子宮の安らぎを与え、焼き切れそうな神経を癒してくれるのだ。ただ、難があると言えば、煙草を吸えないことであるが。

 ホームズは静かに目を開けて、周囲を見回した。うたた寝をするもの、読書をするもの、書籍を探すもの、この空間では誰もが目的を持って行動し、個々の分割された部分空間を尊重しあっている。ホームズはそれらの部分空間の特性を視線だけでプロファイリングしていく。手にとった書籍名とそれを追う人間の目の動きからその性格と人生の断片を読み取り、小説以上の背景を補いデータベース化する。彼の異常なまでの知的好奇心を満たす確実な対象がここにはある。

 そして、何よりもこの空間から吸収可能な無限の情報は教師としての彼の存在そのものを支えていた。コンピュータから手軽に得られる情報を彼は信用することができない。誰もが検索できる電子情報は、それを流したものの意図や意思を必ずしも反映しているわけではない。ホームページ上で展開される仮想会議(バーチャル・コンファレンス)は、答えを期待しない一方通行の質疑であり、結論が見えない袋小路である。そんな無責任な言いたい放題のドロのようなデータに席巻されたネット社会に自己を委ねることなど断固としてできないのである。浸潤した情報には責任があり、価値あるものとして尊重されねばならない。生きたデータとは、人の表情や仕草、そして人が心を込めて著した書物から読み取り得られるものと信じて疑わない彼である。

 ホームズは一息ついて、椅子から立ち上がった。いつもように「自然科学」の書架にある数学のコーナーに歩み寄り、先週からの書籍の変化や配置の微妙な違いをスキャンニングし始めた。書棚の上段から、2段目と目を移し、ある本のところで彼の目の動きは止まる。

 「数学の美しさを体験しよう」…職場の同僚のポアロが敬愛するサージ・ラングの著書である。眼を落とし、一瞬の躊躇とほんの僅かな思考の空白の後、途切れた刻を繋ぐかのように伸びた右手は本を書棚から引き出していた。そして掌に乗った本のページを親指で弾くかのように押し出し、ページをペラペラとめくっていく。と、突然、彼の指が滑り、リズムは崩れてページの送りが停止した。リズムを壊した原因を探るため見開かれたページを見る。97ページ。

V 幾何学と空間についての大きな諸問題
  要約 数学をするというのは、数学の大問題を提起し、それらを解こうとすることである。
     そして終局的にはそれらを解くことである。……
 次の文章を隠すように小さな紙片がページの間に挟まっている。ホームズはそれを手に取り、2つ折りになっている紙を開いた。

 教育成果は帰納的定義により証明できるでしょうか。 

Dr.P

 ホームズは眼を細める。唇の端の筋肉が僅かに痙攣し、苦笑とも嘲笑とも取れる何とも形容し難い表情が一瞬浮かんだ。彼の脳裏に2日前の学校での出来事が蘇ってきた。

 全校公開捜査。ポアロがかってにそう呼んでいる彼の公開授業にホームズは参加していた。 ホームズは苛立っていた。冷静沈着である彼には珍しく、泰然を自負しているだけに余計、苛立つ自分に対してもまた苛立っている。原因は眼前で授業をしているポアロである。

 彼はポアロをある意味では評価していた。論理的、かつ柔軟なその思考は過去、幾多の生徒の挑戦を退け、輝かしい戦歴を残している。ポアロの数学的推論はホームズのそれと違って直感性に頼り過ぎている嫌いはあるが、視点と論点を見誤ることは少ない。数学でいうベクトルがはっきりと定まっているのだ。人物的評価はとにかく、数学指導者としては、ホームズが認める数少ない教師の一人であった。

 ところが最近、ポアロのベクトルの向きは変わってしまったような気がする。厳密にいうと、変わったのはベクトルでなく、それを支える座標軸である。ホームズは基底そのものが微妙にずれて変化したと洞察した。

 そのズレは、教育というキーワードが大きく関与していると考える。ポアロは問題解法の推論の過程に、教育を介入させたのである。その結果、結論を必ずしも要求しない解法が溢れ出し、ベクトルは放射線状に発散してしまった。

 「生徒の数だけ答えがある」、そんなコマーシャルが最近流行っているが、初めてこのコマーシャルを見たときホームズは耳を疑った。数学においては答えは1つであり、唯一無二のものである。思考過程として幾つかはあるだろうが、あっても2,3通りのものであろう。解法が定理や性質の積み重ねであるなら、当然の帰結として答えは得られるわけで、2つ以上存在するはずはないのである。ポアロがよく口にする犯罪捜査でいえば、犯人は一人ということだ。もちろん、数学以外の教科については、思考過程そのものを答えとするものもある。それとて、すべての生徒の解答を答えにしてしまったら、指導する教師の解答もその一つに過ぎなり、教育秩序に混乱をきたす。教育論は、教育的配慮としては個々を育てる名目で尊重されるべきかもしれないが、実践の中では現場を仮想現実に陥れてしまう危険性があるのだ。そしてその匂いをホームズはポアロに感じ取ったのである。

 気になったホームズは「カルネアデスの舟板問題」で彼の真意を推し量ろうとしたことがある。しかし、かえってきた回答は、ホームズの予想だにしないものであった。

 「海難事故で海に投げ出された2人が1人の重さにしか耐えられない板にしがみつくとき、自分と相手のどちらが助かるべきか」、刑法における緊急避難の問題をホームズは教育現場に置き換えて心理学的に解釈した。問題解決を教師、生徒のどちらの側に立って指導すべきかということに対比させたのである。だが、ポアロの結論は、「立ち泳ぎをしながら交代して板に掴ればいい」というものであった。はたしてポアロはそれを現実的な打開策と考えたのだろうか。実際に立ち泳ぎをしながらどれだけ長い時間、2人は耐えることができるだろう。やがて2人の疲労は極限に達し、両名とも海底に沈んでいく姿を思い浮かべることは想像に難くない。結局は、いつ来るか分からない助けを待つなら、どちらか一人が助かるかという究極の選択を迫られることになるのである(そう、あの映画「タイタニック」でディカプリオが決断したように)。

 ポアロの回答は一見は誰もが助かるような最善の解決策である錯覚を与えるが、現実逃避の最たるもので、正に、教育論が仮想現実を構築してしまったケースなのである。ホームズは失望した。ポアロが数学者なら2値論理を死守すべきだ。ポアロは数学者でも教育者でもない、教育数学者になっていた。

 そんな思いを抱きながら参加した公開授業であったが、今日の授業のテーマが追い討ちをかけるようにホームズを不機嫌にした。

 〜TSTによる数学的帰納法の効果的指導について〜

 TSTとはポアロ考案による三段教授法なる指導方法である。以前、何かの研究紀要に寄稿されたものを読んだことがあるが、おだてなだめすかす、甘やかしの教授法である。おだてりゃ豚も木に登るとでも言おうか。生徒に媚を売るような指導にホームズは辟易した。 そんなホームズの気持ちを他所に、教壇ではポアロが数学的帰納法の導入を始めていた。

数学的帰納法は、ドミノ倒しのようなものです。
ときどきテレビの特番で高校生が合宿をしてギネスブックに挑戦しているだろう。
ドミノが倒れる原理は、ドミノをどうやって並べていくかということを考えてみればいい。
例えば100個のドミノが並んでいるとする。
そのとき101個めのドミノは、100個めのドミノを仮に倒したとしたら、101個めが倒れるように並べればいい。
ここが大事なポイントだよ。
いいかい、けっして100個めのドミノは倒しちゃいけないんだ。
実際に倒したら、大ヒンシュクだよね。
倒すことを想像して慎重に次のドミノを並べていくんだ。
そしてすべて並べ終わったら、代表者が1番目のドミノをちょっと震えてる指で押すんだ。
そうすると……、
 ホームズは思う。どうしてポアロはこんなに回りくどい説明をするのだろう。数学的帰納法はアルゴリズムの一回路であり、それを実行するだけの単純作業である。知識獲得も単純な思考操作であろう。知を形成するメカニズムは単純だ。感覚情報はニューロンをケーブルとして、脳内の海馬という組織に送られ、記憶回路が形成される。貯蔵された記憶は刺激を受けることで、ネットワークを張って増殖し、データ化されて自己整理していく。したがって、いかに脳に刺激を与えるかが問題となる。そして刺激による脳のシワを増やすには、脳がキズを負えばいい。例えば眼から伝えられた視覚情報は、ギャバというニューロン間の連結組織で再構築されるが、ギャパで情報を増幅させるには、強い刺激は好ましくない。過度の刺激は徐々に脳を麻痺させるのである。むしろ、淡い刺激を少しずつ与え、なぞるように脳のシワを刻んでいくのである。

 その方略(ストラテジー)として、彼は心理学的アプローチをすることがある。サブリミナル効果。意識されないレベルへの知覚攻撃は生体に無意識の理解を強要する。アメリカ、ニュージャージー州のあるドライブイン・シアターでのコカコーラ実験がこの効果を世に広めた。「ピクニック」という映画の上映中、観客に気づかれないように、「Drink Coke!」と書かれたフィルムカットを何枚か差し込んだところ、コーラの売上げが急激に伸びたというものである。潜在意識下での誘惑に個体は負けたことになる。この手法は、フリードキン監督の「エクソシスト」や奥山和由監督の「RANPO」などにも用いられていた。無意識の中の記憶といわれるこの効果を授業においてもホームズはときおり演出する。関係のない話や問題の合間に別の公式や解法をそれとなく滑りこませるのだ。何度も、何度も、深く、深く、繰り返し。それは意識の中の記憶(スプラリミナル)と無意識のそれ(サブリミナル)をレイヤーのように重ねていくようなものである。ホームズがその授業で要求しているのは実は刷り込まれた無意識の記憶の方なのである。

 突然、耳障りな歌が、ホームズの黙思を切り裂いた。

定理という名の あなたを訪ねて
次のnへと また旅にでる
nが1では 成り立つのだけれど
一般の では 皆目分からない
そういうときには ………

 信じられないが、ポアロが歌っている。メロディはいずみたく作曲のフォークソング「希望」である。希望の替え歌で数学的帰納法の原理を歌ったものがあるとは知っていたが、まさかこの場で聞けるとは。それもポアロから。だが、この歌を知らない世代でも、ポアロの音程が酷く狂っているのは分かるだろう。まったく雑音にしか聞こえない歌唱力であり、とりわけ自身もバイオリンを弾くほど音楽に造詣の深いホームズには許すことのできないズレであった。

 ホームズは熱烈なモーツアルティアンである。

 モーツアルトの優美な古典派様式に見え隠れする洗練された対位法、神秘性の奥底に隠蔽された遊び心はホームズを魅了して止まない。中でも彼はレクイエムを愛した。k(ケッヘル)626番。モーツアルトの遺作である。生と死の狭間で書かれたこの曲は、第8章涙の日(ラクリモーサ)で彼の35年の命とともに途切れ、彼自身の鎮魂歌となった。 この曲には謎が多い。曲を依頼した灰色服の不気味な紳士は誰だったのか、モーツアルトは毒殺されたのではないか。当時は憶測が飛交い、研究家がその謎に挑んだ(アカデミー作品賞を受賞した映画「アマデウス」は毒殺説をテーマとしていた)。また、遺族の願いであったレクイエムの完成にも多くの音楽家が取組み、現在では5つの版が補作されている。特に、ホームズは、レヴィン版が好きである。以前、彼自身も未完の部分を補おうと思い、モーツアルトの性格、曲風、時代背景などから独自に曲を研究したことがある。彼の調査・分析にもっとも近かったのがレヴィン版であった。ほろ苦い死の匂いと曲に纏わりつく謎、推理のごとく拾い集めた音符の荘厳な響きにホームズの胸は躍るのである。

 実はホームズにとって、レヴィンという名は別の思い入れがある。

 学者K.レヴィン。ゲシュタルト心理学の権威である。

 ゲシュタルト心理学者の観点は、個体を俯瞰することから始まる。「常に全体から考察せよ」がそのスタンスであり、知覚の単位を点刺激から形態(ゲシュタルト)へと拡張したのである(さらに環境へとその視野は広がっていく)。レヴィンは、生徒の態度や行動(B)は、内的因子である個体の人格(P)と外的因子である物理的な環境(E)の相互作用に依存し決定するとして、心理学的事態の関数で表現した。

   B=f(P・E)

 これを「場の理論」という。

 数学での問題解決に当てはめるなら、公式は、累積、多用する道具とみるのではなく、公式そのものが解法全体を表現しなければならない。幾何では、図形全体を場と考え、角度、辺、性質といった要素を有機的につなぎ構造特性とすることである。そのつなぎの働きが、例えば補助線なのである。

 生徒を混乱させる試行錯誤学習に対して、場の理論は関係解明学習といえる。そしてそれは、数学的帰納法においては、演繹と帰納の違いといえるだろう。

 「よい理論ほど役に立つものはない」、レヴィンの残したこの言葉は場の理論に対する絶対的な自信を物語っている。後に彼は位相幾何学を生活空間上で考察し、トポロジー心理学を作り上げた。数学を心理分析の基盤としたレヴィンの理論にホームズは強い共感を覚えるのである。

 すでに授業は中盤に入っていた。ポアロは数学的帰納法の演習問題を黒板に書き出している。

ex)nを自然数とするとき、7n−1は6で割り切れることを数学的帰納法で証明せよ。

 なんて問題だ。ホームズは顔をしかめる。壇上のポアロがちらっとこちらを見たが、ホームズはそれを無視するように表情を崩さない。ポアロも何事もなかったかのように授業を進める。

では、n=kのとき、成立すると仮定して、n=k+1で実際に成立することを証明しよう。
 …………………………………………………………………………………………………
できたかな。
では、最後にn=1で実際に成立することを確認してごらん。
そして、最後に、Q.E.Dと書いて、解答を締めくくるんだ。
ところで、これは何の略だか分かるかな。
 ポアロは生徒全体を見渡すが、明らかに特定の女子生徒に信号を送っているのが分かる。先生の視線を感じた生徒は、周りを気にしながら、それでもはっきりとした口調で答える。

 「Question Endですか?」

 ポアロは、ニンマリ笑う。唇に連動する八の字の口髭が嫌味に曲がり(彼は口髭が似合っていると思っているのだろうか)、得たり顔で話し出す。

そのとおりだ……、と思ったら大間違いだ。
だって、クエスチョンは質問の意味だろ。
それだったら「質問終わり」になってしまう。
実はこれは、ラテン語「Quod Erat Demonstrandum」の単語の頭文字をとったものなんだ。
もちろん、証明終わりという意味だ。
こうやって書いて終わると、何か「解いたぞ」って実感が湧いてくるよな。
さあ、それじゃあ、そろそろ授業もこの辺でQ.E.Dにしようか。
 タイミングよくチャイムが鳴る。というより、時間を計算してのエンディングであろう。テーマを時間内に手際よくまとめる技量はさすがである。それだけに惜しいのである。

 ホームズは生徒に続いて教室を退出しようとした。

 「ホームズ先生」

 背後からポアロの声が響いた。予期していた呼び止めである。おそらくポアロにとっても。

 振り返ると、にこやかな表情を浮かべながら、ポアロは言葉を続けた。

 「先生、ありがとうございました。何か感想があったらお聞かせ願えないでしょうか」

 ホームズは感情を押し殺し、
 「指導案にあるTST(Three Step Teaching)理論がよく実践されていたと思いますよ」 と、素っ気無く返答する。ポアロの口髭がまた醜く曲がり笑いを湛えている。

 「先生、授業中の先生の顔を見れば不満があるのがすぐ分かりましたよ。先生の率直なご意見をいただきたいのですが」

 予想通りの反応である。ホームズはポアロの挑発に乗ることにした。

 「まあ、敢えて言わせて貰えば、先生はどうして数学的帰納法の手順において、 の証明を最後にまわしたのですか」

 ポアロは待ってましたと言わんばかりに間髪を容れずに答え始める。

 「n=1から始めるのが普通なのでしょうけど、ドミノ倒しの原理として数学的帰納法を捉えるには、実際のアクションは最後にした方がいいと思うのです」

 やっぱり、そう言うだろうな。ホームズはもう少し突っ込んでみることにした。

 「数学的帰納法は、ペアノの公理系の第5公理を自然数に置き換えたものですよね。もっと簡単にいえば、自然数には最小数が存在するという最小原理から保証されるものなのだから、推論としてはn=1から出発すべきでしょう」

 「でも、生徒は、数学的帰納法のアルゴリズムが知りたいわけですから、数学的視点より生活に密接した観点から教えてやるべきだと思うのですが」

 シナリオ通りである。では、そろそろ。

 「では、先生はどうして帰納法の例題を6の倍数を証明するような問題にしたのですか」

 ポアロの顔に陰りが走ったのをホームズは見逃さなかった。

 「おっしゃる意味がよく分からないのですが。なにか問題でもあるのですか」

 「帰納とは、具体的な事象の共通法則性を推測することから仮説を立てることであり、その仮説が正しいことを証明するのが数学的帰納法ではないのですか。例えば、漸化式の帰納的定義から一般項を求めるような問題です。しかし、先生の提示した問題は、6の倍数という仮説の成立がすでに明らかになっていることの証明であるわけですからむしろ演繹法とみなすべきでしょう」

 「だからといって、問題があるとは思えません。何度もいうように、生徒に理解して欲しいのは、数学的帰納法というオートメーション機械の操作です。先生は、どうしてそんなに原理に拘るのですか」

 「拘っているのは先生の方では。私は実は数学的帰納法なんてどうだっていいと思っているのです。なぜなら数学的帰納法を無限回の三段論法(カット法)とみなせば、ゲンツェンの基本定理(カット消去定理)より、三段論法で証明できることは三段論法を使わなくても証明できることになってしまうのです。6の倍数にしても、もっと簡単な証明が幾つも考えられるでしょう」

 「先生は、数学的帰納法は必要ないと」

 「必要がないとはいっていません。三段論法の原始的な例として、ツェノンの逆理の1つであるアキレスと亀の競争の話を考えてみてください。アキレスがどんなに速く走ろうとも亀にはけっして追いつけない無限のパラドックスに落ち込んでしまいます。数学的帰納法も、仮説を強調し過ぎると、その仮説から仮説の証明を試みるというシステムの不完全さを印象付ける結果になるのです」

 「確かにシミュレートである限りは、疑問と不安はあるでしょう。でも、最後に1番めの仮説の証明が示されるからこそ現実に引き戻され奇妙な感覚は払拭されるのでは」

 「では、もっと具体的にお話しましょうか。先生の授業は、ドミノ倒しで導入を諮り、帰納法の歌によるインパクトで操作の定着を試みた。ここまでに要した時間が28分間でした。その後の演習が17分で、残り5分がまとめだっと思います。問題は、この28分の導入なのです。この導入の時間に先生はTSTに基づいて、生徒と会話をしながら論理を組み立てていった。でもそれは結果として、個々人の生徒と先生との相互理解(One-to-One)にしかなっていない。生徒に定着したのは断片的な知識なのです」

 「当てられた生徒だけが理解していたということですか。そんな馬鹿な」

 「先生は、生徒の集中の臨界点をご存知ですか。今の生徒は13分でひとつの集中力がいったん焼き切れてしまう。それはテレビのコマーシャルによって習慣化された彼らのリズムであり、生理タイマーとしてすでに内蔵してしまっている。28分という時間は余りに長く、彼等は当てられていない時間に休息をとっているのです。実際、先生がある生徒との会話を楽しんでいるとき、8人の生徒はうわの空でした」

 「そうであってもそれが数学的帰納法の不必要論とは関係ないでしょ」

 「繰り返しますが、不必要ということではないのです。パラドックスを内包している原理にそれ程の時間をかける必要はないということです。例えばです。優性と劣性の固体を仕切ってある箱に右と左に別々に入れたと考えてください。仕切りと取りはずすとどうなるでしょうか。時間の経過とともに固体は混ざり合って均一化し、最小であったエントロピー、すなわち状態の無秩序さは増大し続けます。私には28分間でエントロピーがマックスに達してしまったように感じたのです。」

 「結局、先生がいいたいのは、TSTには欠陥があるということなのですか」

 「TST自体に問題があるかどうかは分かりません。ただ、私ならもっと単純に考えます」

 ホームズは、黒板に歩みより、ポアロのTSTを真似て、次のように書いた。

 ホームズは、黒板の方を向きながら、シナリオの最終ページを静かに語り始めた。

 「知識習得には、理解より先に知ることが大切だと思います。使えるようにならなければ、演習にしろ、疑似体験はできないものです。そのためには、生徒の意識が貪欲なうちにまず与えなければならない。それから与えたものを削ぎとっていくのです。

 小さい頃、砂山に棒を立て、少しずつ砂を削って誰が最初に倒すか競ったことはありませんか。棒倒しのように、砂を取り除いていく作業過程が個々の理解であり、取り除いた砂の量が理解の深さといえます。極論をいえば、理解とは数学を壊す過程に生じるエネルギーといえるでしょう。 でも、ポアロ先生のTSTは知恵を積み重ねて知識を得ようとしている。まるで先の見えない帰納法のように。私には、壊す方がずいぶん楽なように思えるのですが」

 ホームズは、議論を一方的に終わらせてチョークをおき、ポアロを無視してドアへ向かった。

 ポアロの声が追いかけてくる。

 「帰納法が無限のパラドックスを含んでいるなら、それは無限の可能性を孕んでいるともいえるのではないでしょうか。努力すれば得られるということです。数学を作り上げるために、ラング氏は"さあ数学しよう"といいました。数学は砂上の楼閣と違ってそう簡単に壊れはしませんよ」

 図書館の空調が壊れているのだろうか、少し暑苦しい。

 教育と数学は線分上の両端にある2点だと思う。2点間の距離によって、数学教育(あるいは教育数学)の色合いが決定する。ポアロは多分、線分上の教育側に近い領域の点にいるのだろう。だが、間違いなくその点は揺れ動いている。なぜなら、数学が完成された学問なのに対して、現場における教育はあまりに未完成であり、絶対的価値観など語れない。ポアロはそんな不安定な教育の上に仮説を積み上げようとしているのだ。 ホームズはペンを取り出して、紙片に書き込んでいった。

1は小さい数である
nが小さい数ならn+1も小さい数である
したがって、数学的帰納法よりすべての数は小さい
故に、教育が小さな成果の積み上げなら、
それは完成することはない

Q.E.D

 彼は小さく畳んだ紙片を、ページの間に元のように差し込み、本を閉じてから書棚に戻した。

 そして何事もなかったかのように出口へと向かう。

 自動ドアがスーッと開き、冷たい空気と喧騒が吹き込んできた。

 ホームズは、エントロピーの増大したファジーな世界に身を委ねた。


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