あとがき ……そして感謝
山峡のせせらぎにひとひら舞い落ちる梅花。流れに浮き沈み清流に遊び、激流に弄ばれ、ルバートに、アチェルランドに春の新緑の中に溶け込んでいく。
バッハ作曲のゴールドベルグ変奏曲は、そんな情景を思い浮かばせる。ヴァルハの弾くチェンバロは、モチーフの典雅なアリアを、優しく、力強く、悲しく、楽しく、様々に変容し、多彩なバリエーションを編み上げる。
きっと大山先生は、バッハが好きだと思う。
音楽(合唱)と数学という二つの青春を通して教職人生を駆け抜けていった先生。その先生の実践の後ろ姿を澪標として追い、多くの後輩教師達は励まされてきた。先生は周りの人間も花開かせた。その先生の無二無三な姿勢、そして一途な学問への追及心は、バッハがこよなく似合う。
バッハの曲は、緻密に組立てられた作曲技法の理論上にある完成された音楽である。崇高な哲学とも言えるその音楽は、完成された調和美の世界である。「G線上のアリア」を聴く子供達の顔を見るといい。無垢な心に受け入れられるバッハの音楽の深遠さに触れることができるだろう。
ヘンデルは、バロック時代、バッハと肩を並べた音楽家であるが、二人は、同じ年に生まれ(ヘンデルの1ケ月後にバッハが生まれる)、出生地も隣町、晩年の境遇も似ている。しかし、その曲風は対極に位置する。ヘンデルの曲は、春爛漫、桜吹雪が舞うような華やかな色彩に彩られた情感的音楽である。主旋律にぶら下る装飾音はともすれば旋律さえも食ってしまう賑やかさ。「水上の音楽」や「王宮の花火の音楽」といった宮廷音楽や野外音楽の楽しさは胸踊るものといえるだろう。
ところで、一説によるとヘンデルの音楽は剽窃が多いと言われている。今流にいえば、他人の作った旋律をパクるということだろうか。そのメロディにはどこかで聞いたフレーズがずいぶんあるようなのだ。その真偽は定かではないし、多分、ヘンデルの名声を妬んだ者の中傷だと思う。でも、万が一そうであってもその音楽の秀逸さと価値は少しも揺るぐものではない。それほどヘンデルの曲にもまた完成された素晴らしさがある。
さて、本レポート「変身多角形のスリムメタモルフォーゼ」は序文で述べたように、大山先生の発表された「正多角形の変身〜面白いデフォルメ〜」のパクりである。日数教山口大会でも発表されたそのレポートは、先生にとっては大切な1篇である。札幌東高の生徒と楽しい思い出が詰まっているものだし、先生自身も数実研の講演の中で、「ベクトルについては随分拘っていた」と述べられている。そんな大切なレポートをパクったわけだから、この後大山先生の信奉者に袋叩きにあいそうな気がする。でも、その前に弁明を……
大山先生の論理はパクるべきものだと思う。開き直っているわけではけっしてない。
私達は、数学者ではなく数学教育者であろう。私達の研究は、生徒が数学という素晴らしい学問を感動をもって体感できるよう、その思考のアシストに最大限の努力を払ってされるべきである。生徒も私達の思考をパクっていく。「パクる」とは「食べる」ことと解釈できる。咀嚼しながらやがては自分の血となり肉となる。極上の食べ物が目の前にあって食べないことのほうがよっぽど失礼ではないだろうか。
「まねる⇒まねぶ⇒まなぶ」
私の好きな言葉である。これも正多角形の変身と同様、ひとつのデフォルメ。デフォルメとは進化ともいえるかもしれない。
実は、バッハの音楽理論はデカルトの哲学に似ている。著書、方法序説の中では「明証的に真と認めることなしには、いかなることも真であるとして受け取らない」そして「困難は分割せよ」と述べている。モチーフから繰り広げられるバリエーション(進化)を愛したバッハとどこか似ているのである。
そしてヘンデルは、パスカルと似ている。デカルトが分割した末のエッセンスから新たに論理を再構築したのに対し、パスカルは統合的に論理を見なおす。分割と統合、デカルト(バッハ)とパスカル(ヘンデル)の違いである。私達が問題を解くとき、いつもこの二つの考えがぶつかり逡巡する。でも人は誰でもバッハになれるというわけではない。論理が組立てられないから誰かの論理を参考にする。パクり、統合的に解釈するのである。パスカル的な考え方の方が組し易いわけだ。ヘンデルの装飾音は、パクりのデフォルメの一過程なのかもしれない。
私は、バッハにもヘンデルにもなれない。だからせめて真似ることから始めることができればといつも思っている。
本レポートを書いている中で面白く思ったことがある。変身多角形の「新世界シェーマ図」を描いているとき、頂点が惑星に思え、その配列が銀河系に見えてきた。新世界が宇宙の中に漂っていたのである。これは物理学的な思考だろうか。物理学科出身の大山先生がみたであろう景色を私も垣間見ることができた。
最後に、正多角形の変身という素晴らしいロマンを与えてくださった大山先生に紙面を借りて、あらためて感謝の気持ちを捧げたい。
(1999.3.12)