(1)小学校学習指導要領の改訂方針の簡単なまとめ
@教育活動全体を通じて、自動の発達段階や各教科等の特性に応じ、豊かな心をもちたくましく生きる人間の育成を図ること。
(2)生活科設定の経緯
本稿をまとめるためにいくつかの著書を読むまでは、こんなに長い時間がかかって『生活科』が創設されてきたということは全く知らなかった。かなり長くなるが、小学校低学年の教育のあり方の論議が重ねられ始めた昭和40年代からの経過をまとめなければならない。
@昭和42年の教育課程審議会の答申
低学年社会科について『低学年の内容のうち、具体性に欠け、教師の説明を中心にした学習に流れやすいもの(たとえば、学級生活と個人の関係を示したものなど)の取り扱いについて検討を加えるとともに、児童の生活に即した具体的な社会の要請(たとえば、安全に関する認識や公民としての意識のめばえを育てることなど)等についても充分配慮して改善を図り、児童の発達段階を考慮して、他教科、道徳等とも関連させて、効果的な指導ができるようにする』と述べ、一方、低学年理科について『低学年においては児童がみずから身近な事物や現象にはたらきかけることを尊重し、児童が対象と比較したり、関係づけたりするなどの経験を豊富にするような内容に改善する』と述べている。
当時は昭和32年に生まれた私が小学校4年生頃で、教員をしている今なら述べられていることが実体験と比較してわかるような気がするが、この頃から生活科創設への準備が始まっているとなると感慨も深く、知識の詰め込み教育ではなく、現在でいう教科横断的な学習が進められていたらもっと学習に意欲が出たろうにと思う。
A昭和46年の中央教育審議会の答申
低学年教育のあり方について『特に低学年においては、知性・情操・意志および身体の総合的な教育訓練により生活および学習の基本的な態度・能力を育てることが大切であるから、これまでの教科の区分にとらわれず、児童の発達段階に即した教育課程の構成のしかたについて検討する必要がある』と述べている。
私が中学2年、受験のことが重くのしかかってきた頃で、教科書だけで進められている授業が嫌でしょうがなかったという記憶がある。
B昭和51年の教育課程審議会の答申
低学年の各教科等の編成は現行通りとし、児童の具体的かつ総合的な活動を通して知識・技能の習得や態度・習慣の育成を一層重視する観点から合科的な指導を従来以上に推進するような措置をとることが望ましいと述べている。
実は、この昭和51年頃から今回創設された新教科『生活科』についての具体的な研究などが始まっている。昭和50年の同審議会の中間まとめでは、低学年の教科構成のあり方について、それを改めるべきであるとする意見や改める必要はないとする意見を両方要約して載せ、次のような改善方向を示している。
C昭和58年の中央教育審議会教育内容等小委員会の審議経過報告
11月に取りまとめられたこの報告では、小学校低学年の教科構成のあり方について、次の提言をしている。
D昭和61年の臨時教育審議会の第二次答申
4月のこの答申では、小学校低学年においては、教科の総合化を進めることを提言している。その趣旨として『小学校の低学年の児童は、発達段階的には思考や感情が未分化の段階にある。こうしたことや、幼児教育から小学校教育への移行を円滑にする観点から、小学校低学年の教科の構成については、読・書・算の基礎の習得を重視するとともに、社会・理科などを中心として、教科の総合化を進め、児童の具体的な活動・体験を通じて総合的に指導することができるよう検討する必要がある』と述べている。
E教育研究開発学校及び教育課程研究指定校における研究
文部省では、小学校低学年教育のあり方を探るため、昭和51年度から教育研究開発学校を設けて、小学校低学年における総合学習について研究を進めてきた。この研究開発学校においては、小学校低学年の教育効果を一層高める観点から、これまで問題指摘のあった点などを踏まえ、現行の各教科等を再構成した上で、児童の活動や体験を重視しながら、いわゆる認知的側面や情意的側面を含めて総合的にねらいの達成を図るよう計画し、研究を行っている。その内容構成は、
F昭和61年の小学校低学年の教育に関する調査研究協力者会議の審議のまとめ
文部省は昭和59年7月に小学校低学年の教育に関する調査研究協力者会議を設け、小学校低学年の教科構成のあり方について検討を行った。そして、昭和61年7月に『小学校低学年の教科構成のあり方について(審議のまとめ)』を決定した。この中で、次のような点を重視しながら改善を図る必要があるとしている。
G昭和62年の教育課程審議会の答申
Fを受けて、この答申では、『低学年については、生活や学習の基礎的な能力や態度などの育成を重視し、低学年の児童の心身の発達状況に即した学習導が展開できるようにする観点から、新教科として『生活科』を設定し、体験的な学習を通して総合的な指導を一層推進するのが適当である。『生活科』は、具体的な活動や体験を通して、自分と身近な社会や自然とのかかわりに関心をもち、自分自身や自分の生活について考えさせるとともに、その過程において生活上必要な習慣や技能を身に付けさせ、自立への基礎を養うことをねらいとして構想するのが適当である。なお、これに伴い、低学年の社会科及び理科は廃止する』と答申している。また、このときに具体的な授業時間数についても述べられている。それは、生活の内容を展開するために必要な授業時間を確保するとともに国語の力の充実に配慮し、『生活科』は第1学年102単位時間、第2学年105単位時間を充て、国語は第1学年34単位時間、第2学年35単位時間増やすこととしている。
かなり長くなった『生活科』の誕生への経緯の説明であったが、これらをもとに『生活科』誕生の背景のまとめをすると、次のような3点に集約される。
(3)『生活科』のめざすものは何か
『生活科』の教科目標は、『具体的な活動を通して、自分と身近な社会や自然とのかかわりに関心をもち、自分自身や自分の生活について考えさせるとともに、その過程において生活上必要な習慣や技能を身に付けさせ、自立への基礎を養う』ことであるとされている。これは、次の4つの趣旨に基づいて設定されたものである。
(1)戦後直後に『総合的学習』の実践が………
第2次世界大戦後の日本の第一期の教育の時代(昭和20〜27年)は『新教育の時代』と称せられる。この時代の特徴は、新生日本の建設のために人格の完成=個人の尊厳を基本とする民主的・平和的な社会生活人の育成をめざした、いわゆる経験カリキラムブームが全国でわき起こった(らしい、私が生まれる前だからわからないが)ということがあげられる。それは、新教科としての『社会科』を中核とするコア・カリキラムの編成や実践であったり、あるいは、教科を『国語・算数』『社会・理科』『音楽・図工・家庭』『体育』というように広領域に編成しての『生活単元学習』(問題解決学習)の試みであったりするものであった。今日でいう、『合科学習』や『総合的学習』の試みであると言ってよい。そして、このような各地での自主的で地域性豊かなカリキラム作りや実践は、当時の学習指導要領が『試案』とされていたことにも起因するものであった(これらについては、私の前回発表したレポート『Is this a revival?(3)』に当時の学習指導要領を紹介してあるので参照されたし)。
(2)系統学習への変身により知識主体教育へ
ところが、昭和27年の4月以降、ことに昭和30年代の前半から、日本は経済の高度成長を基調とする欧米に追いつき・追い越せ型政策を最優先させることとなる。そして、学校教育も一翼を担うこととなる。道徳教育の徹底、基礎学力の充実、科学技術教育の振興、中高コース制の導入などを柱とする『学習指導要領』の改訂・告示(小・中は昭和33年、つまり私の生まれた翌年、高校は昭和30年)の動きがそれである(だから、『生活単元学習』に基づく教科書は数年で消えていったわけなのである。予想はしていたが、明確な理解を得て、ついこの間迄の『すっきりしない気分』が消えた私である)。そして、新教育で登場したばかりの社会科が地理・歴史・公民の各分野にわたる知識主体の教育へと改訂されたり(これが、ついこの間迄文部省が進めていた『詰め込み教育』の元となったのだが)、社会科の担っていた道徳教育的側面が分離されて『道徳』が特設されることとなった。一方、科学技術教育の振興、基礎学力の向上のもとに算数・数学、理科、国語をはじめとする各教科での知識の系統的学習が進められることになった。こうして、経験中心のカリキラム作りである『生活単元学習』の実践から、教科カリキラムである系統的学習への変身の中で、いわゆる『低学年における合科的な指導』が登場することとなる。これは、昭和33年度改訂版の『小学校学習指導要領』の第1章総則・第一教育課程の編成の(四)各教科、道徳、特別教育活動および学校行事等に配当する授業時数の項(カ)として、『第1学年および第2学年においては、一部の各教科について、合わせて授業を行うことができることになっている(規則第25条の第2項)。この場合、目標、内容、授業時数等は、それぞれの教科に示されたものを充足するように配慮しなければならないこと』とされたのである。では、ここで言う『一部の各教科について、合わせて授業を行う』とはどういうことなのだろうか。多くの学者は新しい教科を作って授業するということではないと言う。なぜなら、すでに述べてきたように教育上の転換に伴い、学習指導要領には各教科の目標、内容、そしてその授業時数が各学年別に独立して告示されるようになったのだし、このため、さらに各教科の一部であれ教科全体であれ、それらを全面的に統合して新教科を作るという発想はまず困難であっただろうからというものである。一部の教科の一部の内容を合わせて、合科的に授業する(指導する)ということではないかと思われるのである。もちろん、これは今でいう『総合的学習』や『小学校の生活科』に他ならない。しかも、それが小学校低学年、すなわち第1学年と第2学年に限ってのこととされたのである。現在の小学校の『生活科』が小学校低学年に限定しているのは、この時期の教育に由来すると考えるのは考えすぎだろうか。
いずれにせよ、本稿の第1章と第2章のここまで述べたことから、素人の私にも『教育リバイバル論』の結論は、私が立てた仮説の通りだと自信が持てるようになってきた。そして、最後に、昭和40年代前半への流れを確認して稿を閉じたいと思う。
(3)次の改訂でまた変わり、………
次の改訂である昭和43年版『小学校学習指導要領』には、この『一部の各教科について、合わせて授業を行う……』の記述はみられない。もちろん、前述の学校教育法施行規則第25条の二の規定はこの時期にも存在していたし、もちろん、それは今日まで続いている。多分、各教科分立の中での系統的指導の一層の強まりの中で(事実、この時期には、各教科等の内容は激増され、各教科書はかつてないほどの分厚いものになっていた。それを使って詰め込まれていたのが私たちの世代というわけなのである)、前述までの合科的な指導の発想は姿を消し、代わって、教科別の系統的指導が低学年から進められるようになった、とさえ想像されるのである。
そして、これに続く、本稿第1章の(2)のAで述べた昭和46年の中央教育審議会答申『今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について』は、それまでの教育における量的な拡張政策(高校から大学・短大への進学率の急上昇をもたらすとともに、受験競争の激化、落ちこぼれ、非行等の教育問題を現出)から、質への転換策を求めるものと言える。言い換えるならば、日本経済はすでに欧米に追いついた。今後はむしろ個人の自由、人間本意の『高次福祉社会』をめざすべしとの財界の要求とも呼応し(経済同友会『高次福祉社会のための高等教育制度』(昭和44年))、『自主的・創造的な人間の育成』のもとに、幼稚園から大学までの教育を一貫させるものとして構想し、必要な改革を提案しようとするものであった。以後の流れについては、第1章で述べているのでここでは省略したい。
(4)恩師の戒め
今回、大学当時の教職関連科目のレクチャーノートや録音テープ(当時はビデオカメラはまだなかった)などを自宅の書庫から出して検証してきたのだが(とは言っても、第1章の終わりでも述べたように不十分なところが多かったのだが)、教育原理の担当教官(確か、近隣の私立大学の教授だったと思ったが)の最終講義での戒めをまとめてあった所に目がいったときには、しばらく動けなかった。今から20年以上も昔、当時は大学院へ進学して大学に残ることしか考えていなかった私は、何も考えずひたすらノートをとり続けていた。この恩師の言葉を残して、本稿を閉じたいと思う。
『もうじき、これまでの文部省の政策とは180度も違うと思える程、学校側に全面的な教育の裁量権を与える時代が来る。ただ、そのとき、学校現場がうまく機能できなかった場合、次に文部省がどういう政策に出てくるか、教育原理を学んだ皆さんには容易に想像がつくはず。これから学校の先生になる人はそのことを決して忘れないでほしい。』