物理や工学においてはベクトル(数学における)とベクトル量(自然科学における)の区別はやや曖昧である.例えば岩波理化学辞典では速度の定義を次のように述べている9).
[速度] 運動する点の変位の時間に対する割合で,時間tの関数としての位置ベクトルr(t)の導関教v=dr/dtで与えられるベクトルである。(中略) vの大きさ を速さという。方向はrの描く曲線の接線方向を向く。 |
これらのベクトル量は前節の幾何学的ベクトルと基本的な点で異なっている.その第1は平行移動が可能かそうでないかの違いである.幾何学的ベクトルを失印(または有効線分)で表したとき,その矢印を平行移動してもベクトルとしては同じものであった(むしろ,平行移動しても変わらないものとしてベクトルを定義したのであった).そのことを強調するために,幾何学的ベクトルを自由ベクトルということもある.これに対し,速度や力,変位などは平面内のどの点におけるベクトル量なのかを指定しないと意味がない.具体的には矢印の始点Pを決めてやればよい.
相違点の第2はベクトルの和に関してである.幾何学的ベクトルでは,離れた2つの始点をもつ矢印を自由にたすことができた.ところが力のベクトルに関しては,始点(正唯には力が作用する点)が異なれはそれらの和も一般的に異なる.例えば,下の図のように2つの力f1とf2を合成した結果は(a)と(b)とでは異なっている.(注:いまの場合f1,f2は剛体にはたらく力を表している)
変位ベクトルでは,最初の矢印の終点と,後の矢印の始点がー致する場合でないと和が定義できない.
つまり,大きさと向きをもった量をベクトルと定義すると,これらは必ずしも数学的なべクトルの公理系をすべて満たさないのである.初学者にとってベクトルの概念が分かりにくい理由はこのあたりにあるのであろう.
高校生にベクトルをどう指導すればよいかということについては,様々な考え方があるところである11).筆者の経験からいうと,ベクトルの概念を高校生にきちんと区別させるには,数学におけるベクトルと物理など自然科学におけるベクトル量とをある段階できちんと区別して教える必要があると感じている.そのためにはベクトル場という概念を新たに導入し,ベクトルとベクトル場の違いを鮮明にした方がよいのではないかと考えている.そこで次節でベクトル場について説明しよう.