はじめに

大人の世界が子どもの世界を飲み込んでしまい、実体として一体化してきている現在、両者の緩衝装置(インターフェース)としての子どもの遊び場は失われ、互いに良好な関係を維持できなくなってきている。社会の情報化は、その量や内容について大人と子どもとの間に明確な区別がなくなってきていることが特徴である。その中で、確かに子どもは、情報を分析する力は大人よりも劣るかも知れないが、新たに自分なりの情報を創造していく力には長けている。大人はそうした子ども達の力に目を向けるべきで、いつまでも子ども達が後からついてく

生きていくための情報(知的情報)と感覚を高ぶらせる情報(感覚的情報)について、最近は後者の方にウエイトがかかってきているといわれる。マスコミの情報操作が私達をそうしむけているのも現実であろう。この現実を情報化社会と呼ぶのなら、情報に対する価値意識の形成や、この情報化社会の特徴を自覚するための能力も必要であろう。このことへの一貫した自覚的思考が大切であるのだが、そのための具体的方法とはいったいどのようなものであるのだろうか。

子どもが本当に物事を理解するためには、『知の手応え』が必要である。このことは、数学の学習の中で生徒から、「授業では良く分かったのに、問題を解こうとするとできない。」と聞かされることから理解できる。「分かる」ことと「できる」こととの間に、大きなギャップが存在しているのである。

《参考》Appendix D-6-01

教師は生徒を学ばせるのではなく教えており、生徒もまた教わることに慣れきっており学ぼうとしない。いつどこからこのようなシステムになったのかということはさておき、私達教師に、認知科学的な視点が欠けている点を指摘せざるを得ない。認知科学的に「分かる(知の手応えを得る)」とはどういうことかというと、新しい情報を今まで蓄積されてきた情報と関連付け、知識データベースとして再構築し、瞬時の検索などに耐えられるようになることである。授業で単に分かるといっても間接知識が不用意に増えるのでは、情報関連の再構築に時間

現在の情報はインターネットが一般的になってくることによって、その加工・再構築・発信などの一連の動きが、マスコミや企業の手を離れて私達個人のレベルで可能になってきている。この流れの中で、子どもと大人の一体化はいろいろな意味で進み、学校教育においても両者の関係はますます民主的な関係に進むと考えられる。

知識は与えられなくても検索すれば手には入るものとなり、教師と生徒は学ぶための方法を共同で探索していく関係となる。そこでの教師は、学ぶための知識(メタ認知)を生徒よりは所有していれば良いのだが、所詮そのような知識もいつかは単なる知識に成り下がる。そして教師と生徒は真に民主的な関係となり、本来教育に求められている人格教育へと進むことになるのではないだろうか。