毎週水曜日定期発行 Weekly Mathematics Magazine | 《数学通信》
MAT-28 1993.1.27(Wed) |
★二十歳の頃★〜about 10 years ago from now.〜
君達に,冬休みの特別課題として,《10年後の自分》ならびに《10年後の自分へのメッセージ》という物を出したのだが,君達だけにそれをやらすのもなんか不公平な気がするので,では,俺も自分の10年後を考えてみよう!!そう思ったのだが,よく考えてみたら,俺は現在31才で,10年経ったら41才になっていることになる.(当然ではあるわな.)俺は35才で死んでしまうので,41才の俺は考えられない,想像できないことになるのだ.(何で死ぬかって?できれば,結核なんかで,授業中に血を吐いて死ぬのが俺はいいな.想像したら絶対にかっこいいと思うんだけれど.別に死ぬのが怖くないわけではない.正直死ぬのはものすごく怖い.でも,それ以上に,年を取り,今の情熱を失い,ただチンタラと惰性に任せたような生き方をする事の方がずっと怖いのだ.俺が俺らしくなくなってしまうことの方が,夢も希望も失い現実に飲み込まれて溺れてしまうことの方がずっと怖いのだ.究極の選択を迫られて,死を選ぶか,自分らしくなくなる方を選ぶか,と聞かれれば,仕方がない.俺は死を選ぶ,それだけのことである.)
そこで,10年後は無理なので,10年前,俺が二十歳の頃の俺の話をしようと思う.まあ,そんなところで勘弁してもらいたいのだが.
二十歳の頃,俺が大学生の頃である.
あの頃の俺は本当に尖っていた.いまでこそ人間が丸くなったが,当時は本当に若かったから,世の中の不正や矛盾やいい加減さに毎日のように腹を立てていたし,サークルの先輩をつかまえては,なんだかんだと理想を述べて,それこそ,喧嘩腰でまくしたててなだめられていたっけ.”まあまあ落ちつけ.そんなにいきまいたってどうなる物ではないし,世の中は理想で動くものではないのだから.確かに,お前の言うことはその通りだけれども,そんなに現実は甘くはないのだから.”と.そんな風になだめられても,当時の俺の気持ちがおさまるわけではなく,やり場のない怒りを,おさまりのつかない憤りを手近なものにぶつけて歩いていた.サークル室の大きなごみ箱を蹴飛ばして散らかしたり,落ちてる空き缶をおもいっきり蹴飛ばしていたり,街路樹を蹴飛ばしたりと.きっと当時のあれは,挑むような,険しい目付きをして,毎日過ごしていたのではないだろうか.サークル仲間や妻からは,ウニみたいに刺があると言われていたから.
今でも当時の気持ちが残っている.いや,残っていると言う表現は的確ではないね.残っていると言うと,まるで減ってしまったような言い方だから.正しくは,今でも気持ちは当時のままである.でなければ,こんなことを,聞いていて赤面してしまうようなことを,読んでいて赤面してしまうような理想論を,力一杯語れるわけがない.
ただ,当時と違うのは,俺も少しは大人になったということで,角を立てずに,物事丸く治める術を身につけたということである.俺自身から言わせれば,それはこそくな手段でしかないのだが.だってそうでしょう!根回しをして,意見の対立がないようにして,めでたしめでたしで終わらしたって,本質的な議論も何も無しに,自己の利益や責任逃れのための妥協しかないようなそんなやり方は,絶対に正当な手段でも方法でもない!!そんなのはこそくでしかない!!ただ,そう言っても,現実的に物事を処理しなければならないのであれば仕方がないのである.そんな生き方は嫌だけれども….
当時の俺は,理想に燃えていたから,妥協を許さなかった.もちろん今でもそうなのであるが.ただ,今と当時とでは完全に違う点が一つある.それは,当時は誰に対しても妥協を許さなかったが,今は自分に対してだけは絶対に妥協を許さないというように変わってきたのである.二十歳の頃,余りにも理想を追い求めすぎて,現実を余りにも許せなさ過ぎて,でもそれは,俺自身が自分だけでなく誰に対しても何に対しても俺自身の尺度を,理想という尺度を当てはめていたからで,だから誰に対しても何に対しても自分と同じようでなければいけないと考えていて,どんなことがあっても,絶対に妥協をしてはいけないと,妥協することを許さなかった.だから,俺の尺度に合わないところで妥協をしていく現実に,俺の尺度に合わないところで妥協していく他人に,いつも腹を立てていたのである.いつも尖っていたのである.今は違うけれどもね.どんなに声高に理想を唱えても,それは俺の考えであって,100人の人間がいれば,100通りの考え方があり,100通りの尺度,価値基準があるのだからどうしようもないのだということに気がついたのである.きっと当時の俺は,理想馬鹿に映ったことだろう,他人からみれば.今は,だから自分に対してしかそれを求めなくなってしまったのである.心のどこかでそんなことでどうするんだ!!という叱咤の声が響いているが,悲しいかな,今の俺は当時のようなあの無垢な若さを持ち合わせてはいない.当時の俺の姿勢が間違いでないことは俺自身がよく解っているのだが,ただ今の俺にはあの頃のエネルギーがなくなっているのだ.老いた,という表現が正しいかどうか判らないが.
自分に対する厳しさを他人にまでも同じように押しつけることは,時にそれは罪悪でもあるのだから.それが他人の心を傷つけることにもなるのだから. 当時はそんな自分が自分でも判らないでいたから,自分が一番正しいと思っていた頃である.(今でも俺が一番正しいと確信してはいるが.)
俺がサークルを辞めたのもちょうどその頃である.大学時代は人形劇のサークルをやっていて,児童文学活動に熱心だった訳ではなく,単純に自分の作品を書く機会が欲しかっただけのことで入ったのであるが.ところが,残念ながら,俺は脚本を書く部署には入れてもらえずに,サークル運営を行う部署に入れられてしまったのである.それはそれで仕方のないことで,だからサークルを辞めるなどという単純な子供じみた理由ではない.当時俺は3年生で,サークルの中核に当たる学年になっていた.ここまで来ると,後は隠居して卒業していくというのが普通で,3年生の後半にサークルを辞めるなどということは考えられなかった.でも,俺は,当時の俺は現実に妥協できなかったのである.新入生が入ってきて,先輩達から受け継いできたサークルの流れが,人形劇に対する真面目な想いが年毎に失われていくのがひしひしと判った.一生懸命に受け継いだ想いを,心を伝えているにもかかわらずに,後輩達の意識と俺達の意識の間に溝が出来,それが確実に広がり深まっていくのが判った.無力さを痛感した.あんなに一生懸命だった先輩達の心を俺達はきちんと伝えることすら出来ないのかと.情けなかった.自分自身が許せなかった.非力で無力でどうしようもない自分自身が許せなかった.だから,サークルを辞めようと決心した.このまま,この想いを笑ってごまかして,サークルを続けるぐらいならば,いっそ辞めてしまった方がいいと思った.逃げ出すのか!?自分の心の中でそんな叫び声も聞こえた.逃げ出すんじゃない!!責任を放棄するのではない!!ただ俺は….想いを伝える言葉がなかった.
辞めるということは話すと,同じ3年生の仲間が熱心に引き留めてくれた.夜中,仲間の家でみんなで飲みながら,色々なことを話した.サークルの事を中心に熱心に語った.仲間達は後少しなのだから一緒に頑張ろうといってくれた.下級生の事は仕方のない事で,時代が少しづつそうなっているのだから,学生の気質が年々変わってきているのだから,とも言われた.でも,どんな理由があったとしても,俺の気持ちは変わらなかった.飲んだ勢いとはいえ,仲間にひどい事も言った.今にして思えば,横柄で,思い上がった言葉で,よくみんなが笑ってい許してくれたものだと思えるような,そんな酷い台詞も吐いた.それこそ,思い上がりも甚だしいような言葉である.”俺はお前らとは違うから.”と.理想を追いかけているのは,情熱を傾けているのは,俺だけではないのに,仲間達もそれぞれに一生懸命に自分の想いを,自分の理想を,自分の情熱をサークルに傾けているのに,まるで俺だけがサークルに情熱を傾けているような,理想を傾けているような,そんな口ぶりを,そんな言葉を.
今思えば恥ずかしくなるような事をしてきたと思える.随分と生意気に生きてきたものだと思う.感謝するのは,そんな俺を笑って許してくれて,サークルを辞めた後も,以前と同じようにつきあってくれる仲間達や先輩達に巡り会えた事である.彼ら無しに今の俺は存在しないのであるから.
理想だけで生きて行けたらどんなにいいか.二十歳の頃は,真剣に理想だけで生きていこうとしていたときである.
Printed in Tounn.1993.
Written by Y.O^kouchi.1993. Copyright 1987,1993 MAT Inc. MAT is Mathematics Assist Team Corporation. |