毎週水曜日定期発行
Weekly Mathematics Magazine
《数学通信》
MAT-29 1993.2.3(Wed)

★夢を語る★〜Part2〜

《魅力的な人間》〜希望の種をまける教師になりたいな〜

まもなく教師になって9年目が終わろうとしているし,稲雲高校での4年目も終わろうとしている.

教師という仕事をしていて感じる事は,自分の仕事の持ってる意味,価値の大きさだ.教師という仕事は,それこそ手を抜こうと思えばいくらでも抜けるし,一生懸命やろうとすればいくら時間があっても足りない,そんな職業である.(加えて給料は安いし,残業手当はでないが….)しかし,仕事をしていてのやりがいは十二分にあると思っている.たまに教職をやめようと思うが,やめれない理由はそのやりがいにあるのだろうと思う,きっと.

そんな日常に追われながら,ときどきふと思うのだが,果たして俺は生徒に十分感動を与えているだろうか?と.生徒にとって,俺は十分に魅力的か?と.ひょっとしたら,日常の忙しさにかまけて,俺自身が自分自身を磨く事を忘れてはいないだろうか?そんな不安に襲われることがある.

教師の仕事とは,言っておくが決して授業をする事,教科を教えることではない.俺は今数学の教師であるが,俺の仕事は数学を教えることではない.数学の授業をする事ではない.もちろん,授業はするし,君達に数学を教えもする.でもそれが目的ではないのだ.第一,数学を教えようと思ったら,今の俺の力では到底無理なことである.数学は奥が深すぎるし,俺は頭が悪すぎる.加えて,君達に数学を理解するだけの下地が出来ていない.今,授業で話されている数学は,それこそ,古代,中世の数学,いわゆる,過去の遺物でしかない.真の数学,現代数学を学ぶためには,それこそ気違いではないかと言われるほどの努力と力が必要になるのだ.ちょっと話しがそれてしまったが,教師の仕事とは,そんな即物的なものではないのだ.

では,教師の仕事とは何か?教師の仕事とは,生徒に《希望の種》をまくものだと思う.例えて言うならば,どんな苦しい状況下に置かれても,どんな絶望的な運命に出逢っても,いつも前向きに,いつも未来に夢を持って,そして,その夢に向かって前進する事だけを考え,ひたすらに努力をし突き進む,そんな生き方ができるような,そんな《希望の種》を生徒の心の中にまいていく職業だと思っている,教師の仕事とは.もちろんまいた種が全て芽を出すわけではないし,そのほとんだが芽を出さずに朽ち果てていく場合が多いのだけれど….それでも生徒を信じて種をまき続ける,それが教師の本当の仕事だと思っている.

よく考えてみれば,いや,ちょっと考えるだけでも解ると思う.教師が自分でやっていて面白くない授業を,生徒が聞いていて面白いはずがない.教師がよく解りもせずに,あるいは生徒に理解させようと言う気持ち無しに授業をして,生徒が解るはずがない.

同じように,教師自身に十分に魅力がないならば,生徒だって魅力的になるはずがない.教師自身がその内に,輝く物を持っていないのならば,生徒だって輝く物を持つはずがない.教師に何か輝く物がないのに,生徒に輝く物を求めること自体がそれは罪悪であり,それは教師の傲慢でしかない.

魅力的な教師に出逢えた生徒は,その教師から,授業でとか言葉でとかではなく,その教師の”生き方”,その教師の”生きざま”から,いわゆる,毎日の生活の中から,自分自身の磨き方を教えられる.そして,自分の心の中にある,弱さ,軟弱さ,不安などとの戦い方をも学ぶのである.それは,教師によってまかれた《希望の種》に,水や肥やしをやっているようなものである.やがて,その小さな《希望の種》が芽を出すようにと.だからこそ,魅力的な教師に出逢わなかった生徒は,自分の磨き方を教わらないで大人になる事になる.それは余りにも不幸だ.人として,自分自身を美しく(内面的にであるが….)輝かせる事のできない者は,自分の一生の半分は,いやそのほとんどをどぶに捨てているようなものである.

俺が教師になろうと思ったのは中学生の頃だが,やはり,それもすばらしい教師に出逢ったからだ.ただ,今ではその先生の何にひかれて教職を志すようになったかは忘れてしまったが….(このいい加減さが俺の俺らしいところでもあるわな.)ただ,上手く言葉で言えないと言うこともあるのだけどネ.でも,その先生の事は覚えている.当然のことではあるが.そしてその先生の”生きざま”も….もし俺がその先生と出逢わなかったら,ひょっとしたら本気では教職を目指さなかったかも知れない.教職を本気で目指さなかったら,きっと北海道教育大学旭川分校などは受験しなかっただろうし,そうなればきっと北海道には来なかった思う.(北海道を希望した理由は,もちろん自分の人間としての成長のためではあるが,いつまでも,うつ向いた生き方しかできない情けない男でいたくないという,その想いからではあるが,それは心の奥底で,自分自身が真剣に教師を考えていたからでもあるはずである.もし,いい加減な気持ちで教師を考えていたのであれば,きっと教師になることなど途中であきらめていたであろうから.)すると,当然君達ともこうして出逢ってはいなかったはずである.これこそまさに奇跡である.まさに運命である.

一人の教師との出逢いが,一人の男の生き方を変えたのである.うつ向いて,ちぢこまって生きて行くであろう男の生き方を,古くさい習慣や伝統の中で窒息していたであろう男の生き方を変えたのである.そう考えてみると,教師の仕事の持つ意味はとてつもなく大きい.人の人生を左右するのだ.ましてや高校の教師は15から18という,感性豊かな思春期に,自らの意志で人生の選択を始めるであろう時期に,生徒達に接するのである.一歩間違えば,生徒の人生を潰していくことにもなりかねない.人の人生を棒に振るきっかけにならないとも限らない.(ちょっとオーバーかも知れないが….)考えようによってはね.だからこそ,教師はやっぱり魅力的でなければいけないのである,と思う.

もちろん,考え方を変えれば,たかが一人の教師によって潰されてしまう人生ならば,そんな人生は潰れた方がいいのかも知れない.そんな軟弱な情けない人生など,世のため人のために潰してしまった方がいいのかも知れない.教師が,その人生をかけて《希望の種》をまくのである.その人生をかけて,自らの”生きざま”を見せるのである.その中から人生を,生き方を学んだ者が,そう易々と一人の教師によって潰されるような軟弱な人生を歩むはずがない.そんな柔な生き方をするはずがない.だからこそ,たった一人の教師にやって潰されるような人生は,所詮その程度の人生だったと言うことでしかないのかも知れない.

よく,子供は親の背中を見て育つと言う.同じように,生徒は教師を見て育つものだと思う.子供は親の鏡だというように,生徒は教師の鏡だとも思う.子を見れば親がわかるのであれば,生徒を見れば,その教師がわかると言える.真面目に考え出すと,ものすごく怖い気がする.君達の毎日の志しの中に,意志の中に,俺自身が映されているのかも知れない,俺自身の考え方,生き方が現れているのかも知れないのである.であれば,中途半端な気持ちで,投げやりな気持ちで毎日を送れなくなってしまう.泣き言や,弱音を吐けなくなってしまう.(もちろん,君達の前で泣き言を言ったり,弱音を吐いたりするつもりは毛頭ないが….)いつも目の前にいる君達に,俺自身が映っているのかも知れない,そう考えるとその事実をしっかりと見つめるには,勇気がかなり必要になるが….

でも,だからこそ,しっかりと自分自身を磨いていきたいと思っている.俺自身が魅力的な教師でなければ,君達に魅力の磨き方を教える事もできないし,その前に君達の中に潜んでいる,《輝くものの種》,いつの日か自分自身を輝かせるであろう魅力になるその素を見つけてもやれないことになる.だからこそ,些細なことで希望を,夢をあきらめてしまうような軟弱な生き方をしたくない.笑われようとも,あざけられようとも,陰口をたたかれようとも,自分の夢を捨ててまでも現実に迎合したくはない.そういう意味では,きっと俺は一生アウトローなのだろうと思う.一生ロマンチストで夢を追い続けているのだろうと思う.でも,それはそれ.教師として,一人の人間として,君達よりも早く生まれた者としての責任の一端を,”道”を示すという責任の一端を放棄する訳にはいかない,そう思っている.

Printed in Tounn.1993.
Written by Y.O^kouchi.1993.
Copyright 1987,1993 MAT Inc.
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