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Weekly Mathematics Magazine
《数学通信》
MAT-34 1993.2.17(Wed)

★1+1=1/2となる事もある!!Part-2★〜たとえ愚かと呼ばれようが,志しを取る〜

1+1=1/2となる,その事実は嫌がうえにも現実として目の前に突きつけられる.

ただ,こんな事を今君達が聞かされても,まだピンと来ないだろうと思う.なにしろ,今君達が所属している集団は,組織は,いわゆる仲良し集団でしかない.加えて営利集団でもない.精神的なつながりだけが全ての集団である.だから,それほど集団のなかでの個人の在り方に矛盾を感じる事はないと思う.

そうなのだ.今の君達にはこんな話はまだ難しすぎるのだ.

でも,君達が志しを叶えようとするときに,その志しを叶えるためにはどうしても集団の力が,組織の力が必要だというのであれば,嫌がうえにもこの悲しいくらいな現実に,力の無さ,そして現実の冷たさを痛切に感じるのである.

一人でできる事って,いったいどれくらいあるのだろう?俺はいつも口癖のように一人でできる事は一人でしなさいといっているし,俺自身そうしているつもりだ.群れて,徒党を組んで,数という力に頼って,自分を殺して生きていく,そんな情けない生き方はしたくないと思っている.だからではないが,俺は暴走族だとか,チンピラとかが嫌いである.だってそうでしょう!一人では何もできないくせに,5人10人と頭数をそろえると,自分がいちばん強いのだと言わんばかりに傍若無人に振る舞って,馬鹿でないかと思う.どうして気がつかないのだろう!群れる事は自分が弱いとみんなに言っているようなものだと言う事が.一人でできる事を集団で徒党を組んでやるなんて絶対に最低だと思う.そんなの人のする事ではない.

一人でできる事は確かにわずかである.そんな事は百も承知である.たった一人でいったい何が出来るのかと言われれば,本当に何もできないに等しいと言っても過言ではない.今の社会の中ではどんなに頑張っても個人のできる事は,本当に微々たるものでしかない.どんなにあがいても所詮は一人は無力である.

だってそうでしょう!政治家になるにも一人ではなれないし,仕事をするにも結局一人ではできないのである.組織の中の歯車となって,その中で矛盾を感じ自己の在り方に迷いながら,志しのうちのほんの少しでも叶えれるようにともがくのである.そんな生き方しかできないのが本当のところである.

教師だって同じである.稲雲にいる70人近い先生方の一人一人はそれぞれに考え方も志しも違うのである.それこそ誰一人として同じ志しを抱えてはいない.その中で,一生懸命な先生もいれば,いい加減な先生もいるその中で,俺個人にいったい何が出来るのだろうか?教育とは個人芸ではない.組織に於ける教育力が大きくものを言う.だから,一人の教師がどんなに頑張っても学校は変わらないのである.教育力は変わらないのである.

その一方で,教育は職人芸でもある.教師一人一人のそれぞれ異なる個性を生徒に示す事によって,生徒の心に対して働きかけるものでもある.だから,俺の代わりは誰にも出来ないし,俺は誰の代わりもできない.そしてそんな教師の姿を見ながら生徒は教育というものを無意識のうちの受け止めていくのである.

この関係が難しい.教育が組織力だけ,と言うのであれば,教師は別に人間でなくてもいい.それこそロボットでも教師の代わりが出来る.だが,教育が組織力だけでないからこそ,こうして様々な人間が教師という仕事に携わっているのである.そして,一人一人が職人芸に磨きをかけているのである.(きっと磨いているはずだ!?が,ちょっと自信がないな,断言するのは.)教育が組織力だけであるのならば,一人一人の個性など認めずに分厚いマニュアルを用意してどこの学校にいっても誰がやっても同じになるようにすればいい.

そうしないのは,教育は,学校はハンバーガーショップではないからだ.自動車工場ではないからだ.型にはまった個性の無いそんな機械のような人間を育てているのではないから,だから教師は個性豊かな職人芸に徹する事の出来る人間でなければならないのである.

では,俺は何をする?そう考えているときに,実は別の先生もさて俺は何をする?と考えているのである.志しを同じにすればいいのだけれど,現実的にそんな事は出来るはずがない.例えば,君達の進路希望を実現させたい!そう考えていても,一人一人の先生方の考えは微妙に違う.ある先生は,なにも一生懸命講習だの模試だの,勉強会だのやらなくたって,本人がその気にならなきゃ仕方がないのだから,気長に構えようよ,と考えているかも知れないし,別の先生は,何がなんでも大学に入れてやるんだ!!そのためには今から徹底的に鍛えなければダメだ!!と考えているかも知れない.俺は?迷っている.悩んでいる.答が出せないである.それが俺の甘さにつながっているのかも知れない.もちろん君達の進路希望を実現させて上げたい.そのためにはどんな尽力をも惜しまずにしてあげるつもりであるし,君達のケツも力一杯叩くつもりだ.でも,だからといって高校生活がそれだけで,受験一色だけで終わっていく事もおかしいと思うし,そんな事になって欲しくないと思うのも事実だ.やりたい事もやって,遊びたいときにおもいっきり遊んで,それでいて自分の進路の実現もできれば,それが一番いいのである.ところが,現実は無理である.君達の力が足りないのである.君達の精神が子供だからである.今の君達では,正直言って俺が考えているような夢物語は実現しない.悲しいかな,それが現実であるから仕方がない.

一人一人の志しが微妙に,いや,明らかに違うのであれば,俺の志しは俺の志しでしかない.結局,君達の進路希望を実現させたい!その一点に絞って,行動を共にするしかない.いわゆる共通理解ではなくて,共通指導をというものである.

そんな現実を嫌というほど見せられて,志しが萎えていくのを感じたりもする.

でも,自分の力がどんなに足りなかろうが,どんなに及ばなかろうが,自らの志しを捨ててまで,百も千もある志しのそのほとんどを捨ててまで組織の力に頼って一つの志しを叶えようなどとは思わない.そんな軟弱な生き方は,〜それは俺に取ってはまさに生き方として軟弱であるのだが〜絶対に俺自身が許せない.別に格好をつけているわけでも何でもなく,本当にそんな事はしたくないのである.

「鶏口なるも牛後となるなかれ」という諺がある通り,そんな生き方を貫きたい.(意味は,大きな牛のしっぽになるよりは,小さな鶏の頭になったほうがいい.大きな組織の中で下っ端でいるよりも小さな組織の中でトップにいたほうがいい,一人でいたほうがいい,という意味である.)

たった一人でも,いつも果敢に生きて生きたいし,つまらないしがらみに縛られてうめいているような悲しい生き方なんかしたくない.だから,志しを捨てたくない.百の志しを,千の志しを,たった一つでも捨ててしまいたくない.難しい問であるが,志しと命とを比べれば,どちらが大事か?といわれれば,ウ〜ンと呻きながら,きっと志し!!と叫ぶであろう.

たった一人の戦いは,俺の戦いはいつまでも続く.そう,この志しは捨てられない.1+1=2になるのであればいいのだけれど,でも,1+1=1/2になるのであれば,たとえ愚かと呼ばれようが,馬鹿と罵られようが,そんな事では志しは実現できないじゃないと蔑まれようが,組織に組み込まれずに,個として,自らの志しにこの命を捧げる.

もちろん,志しは叶わなければ意味がない.そんな事は百も承知である.だが,現実は2者択一の中でどちらも叶わないという答がでているのであれば,どちらも,ほとんど叶わないけれど,ひょっとしたら奇跡的に叶うかも知れないよという答がでているのであれが,組織の中に埋もれてあがき苦しむよりも,一人孤軍奮闘して,想いのままに君達に俺の生きざまを見せたほうがいい.その方が絶対に格好いいでしょう!それに,その方が,君達に俺の志しが伝わる確率が高いのだから.

生き方は個の問題である.俺の問題であり,君達一人一人の問題である.

いつか俺のこの言葉の意味が解る時がくる.その時に思い出してもらえたらそれが一番嬉しい,俺にとっては.そして,それが俺の志しの一つでもあるのだから.

Printed in Tounn.1993.
Written by Y.O^kouchi.1993.
Copyright 1987,1993 MAT Inc.
MAT is Mathematics Assist Team Corporation.