毎週水曜日定期発行
Weekly Mathematics Magazine
《数学通信》
MAT-35 1993.2.24(Wed)

★宇宙の外には何があるのだろう?★

我々が存在している宇宙は刻々と,それこそ1秒1秒膨張を続けている.この宇宙の全てなどとうてい今の我々に理解できるものではないのだが,それこそ銀河系,いや太陽系の月へすら自由に行くこともできぬ未だ未熟な人類にとって,それは暴言であろう,が,我々のこの宇宙の外側にはいったい何があるのだろう?

宇宙の外側?想像することが難しい.だいたいが,宇宙の誕生すら定かでない.ビッグバンによって宇宙は誕生したと言うのであるが,そのビッグバンを見たものなど誰一人としていない.では,なぜ宇宙の誕生がビッグバンによって引き起こされたとわかるのか?それはさまざまな天体観測,電波観測,宇宙物理学などの努力の積み重ねによて,どうやら宇宙は元々宇宙として存在していたのではないという結論に現在の処なっているのである.(この手の話は難しい話である.興味のある者は,そうだね,ホーキングの本など読むといいのではないかな.ホーキングを知らない?な,情けない.あの有名な宇宙物理学のホーキングを知らないなんて.1〜2年前話題になり,それこそ猫も杓子もホーキング,ホーキングと言って,難しい物理学などわかりもしない馬鹿面下げた女子大生までがホーキングの本を買ってベストセラーになったじゃない.いかん,こんな言い方をするとまた大河内は女をなめてるんだから!あいつは男尊女卑だ!と言われかねない.だが,それは誤解である.そんな言い方をする事もあるが,決して男尊女卑なのではなく,俺意外は屑である,なにしろ私は偉いのだから!!そう思っているだけであって,決して女が男より劣ると思っているわけではない.みんなが俺より劣ると思っているだけである.これは失礼,話がすっかり横道にそれてしまったね.)

えっと,どこまで話たっけ,そうそう,ビッグバンによって宇宙が誕生したと言うところまで話したよね.

それでである,では,宇宙の外には何がある?と言うことである.

現在の我々の宇宙は?その宇宙の果ては?宇宙の膨張速度が光速に達したところが限界であり,宇宙全体の質量のために空間は閉ざされて一個の球の内側を構成する.それが我々の現在の宇宙であると考えられる.しかし,これでは完全な説明ができない.なぜならば,閉ざされた内側というのは,無限に広がる外の広がりの一部を構成しているからに過ぎないからである.その外,我々の宇宙の外の説明にはなっていない.宇宙の果てというからには,当然のことながらその外側の説明が必要になるはずであろう.

小さなモデルで考えるといい.よく宇宙の膨張を風船が膨らむのに例えて説明されるが,それをモデルに考えればいい.我々が生存を許されているこの銀河系も,そして,遥か彼方に存在するアンドロメダ大星雲も,それ以外の各星団もお互いに同等に離れていっているのが観測によってわかっている.つまりもう少し分かりやすくいえば,銀河系とアンドロメダ星雲が離れていっているだけでなく,銀河系はその他の全ての星団と同じように離れていっているし,同じことがやはりアンドロメダ星雲にもいえるということである.つまり,宇宙の風船のようなもので,風船の表面に絵を書いて膨らますとその絵はどんどん大きくなるが歪んでいくことがない.もとの絵を拡大して行くだけで相似形を崩しはしない.同じように風船の表面に各星団を乗せると,風船が膨らめば各星団の距離はどれをとっても同じように広がって行きこそすれ,特定の星団同士が近づくことはありえない.宇宙の膨張とはそのようなものだと考えられていると言うことである.わかってもらえただろうか.説明としては理解しやすい話であろう,宇宙の膨張そのものの話だけは.

問題はその先である.宇宙の膨張のモデルは理解できたとして,だからといって,その外側が理解できるものではない.宇宙の膨張そのものとその外側とではまったく概念的に異なるものであるから.

話をもう一度ビッグバンの状態に戻そう.宇宙は2百億年以上も前のビッグバンによって誕生した.では,そのビッグバンが起こるための,現在の宇宙が必要とする質量,物質がそのビッグバン時に一点に集中され超物質,の大きさにしてその質量が数百トンというとてつもない重さの超物質,さいころ程度の大きさなのに,軽く人一人潰してしまう,そんな超物質,俗に言うブラックホール,それこそ,光さえも逃げられないような強力な引力を持つそんな超物質が存在していたことになる.それがあるとき,ある瞬間,何かのきっかけによって爆発した.それがビッグバンであるが,その超物質,ビッグバンによって爆発拡散膨張を続ける元となった超物質が存在していたのは,いったいどこなのだろう.どんな空間なのだろう.そう,現在の膨張している宇宙の外側も,遥か2百億年前のビッグバンが起こる寸前の空間も同じなのである.

そうだよ,そうなんだよ.宇宙には外があるんだよ.だからその外を考えたくなるんだよ.ただ,残念なのは宇宙の外がなんであるのか確認する方法がないということである.直接宇宙の外へいって,「へー,これが宇宙の外なんだ!」と,感嘆の声をあげたいものだが,そんな簡単に現実は運ばない.だから悩むのであるし,だから人は想像力という翼で飛ぼうとするのである.

宇宙の外は,実はなんの変哲もない3次元空間,我々が現在普通に生活しているそんな空間が広がっっているのである.

はっきりいってしまえば,我々の宇宙は,それこそ子供がいたずら半分に,遊び心で膨らましている風船そのものなのである.風船が膨らめば宇宙も膨張するが,そのうち子供は飽きて風船を投げ出す.そうしたら,我々の宇宙そのものも消滅してしまうのである.そんな風に考えられないだろうか?

ここからの話は本当にSFチックになってしまうから,SFが嫌いだという者には理解しづらいし,考えるのも嫌かもしれないが,これは一つの仮説である.考え方の一例である.

我々の宇宙は子供の風船の中に生まれた空間であって,2百億年前のあのビッグバンも,それは所詮我々の時間概念であって,宇宙の外の時間概念とは当然のように異なるであろう.ほら,浦島太郎の話を思い出してもらえればいい.竜宮城で面白おかしく過ごした3週間が,陸上の世界では 300年にもなっていたというあの話である.それと同じ様な事が起こりうるのである.我々の時間で2百億年という時間も我々の宇宙の外の世界ではほんの2秒という時間かも知れない.そう考えれば,我々の宇宙の外は,平凡なただの空間という事になる.それならば,この宇宙の構成する膨大な質量はどう説明するのか?それもどうという事はない.だってそうでしょう.風船なんかたかが知れた大きさである.そのたかが知れた大きさの風船の中に,今我々の宇宙がすっぽり入ってしまうのであれば,我々の宇宙を構成している質量などはそれこそ微々たるものでしかない.子供が風船に吹き込む息の中に含まれる空気で充分に足りる量である.では,宇宙に輝く太陽や,恒星といった膨大な熱量を持つその熱エネルギーはどう説明するのか?宇宙全体が風船1個の内部の空間であれば,恒星など,その風船を膨らましている子供の肉眼でみられるものではない.顕微鏡を,それこそ,電子顕微鏡を使って数千億倍といった倍率にしても微かにその輝きらしきものを確認できるかできないかといった類のものでしかない.そんな程度のものであれば,風船内部の熱エネルギーの量は変わらないに等しい.そして,その程度の熱エネルギー変化であれば,子供が吹き込んだ空気の温度変化で充分に説明がつくくらいである.

でも,考えたら空恐ろしくなってくるよね.子供が膨らましている風船の中の世界にいるのが我々なのだとしたら,いったい50億年という我々の住む星地球の歴史はいったい何だったのだろう?我々人類の歴史,戦いの,争いの,血塗れの歴史は何だったのだろう?そして,今生きている事にいったい何の意味があるのだろう?月へ行けたとか,火星を目指すとかいう事にいったい何の意味があるのだろう?

それでも,我々の宇宙の2百億年が宇宙の外の世界の2秒であるならば,その風船を膨らましている子供の気が変わらないのであれば,あとしばらくは,10秒から20秒ほどはきっと風船を膨らまし続けているであろう.すると,我々の宇宙もあと一千億年から二千億年は存在できるという事になるので,充分に宇宙へその翼を,人類の翼を広げていくには時間があるという事ではあるけれども.

逆に考えれば,我々が膨らます風船の中にも我々と同じ様な宇宙が存在し,我々と同じように生きているのかも知れないし,その小さな足で,翼で宇宙という閉鎖空間を探検しているかも知れない.それが風船の内部だという事に気がつかずに宇宙の深淵を考えているかも知れない.

謎は深まるばかりである.が,こうして考える事は,想像を巡らす事は面白いよね.ワクワクするし,ドキドキするし,自分の無力さと貧困な想像力に負けそうになりながらも,今ここにいる自分の存在そのものがわかるようで嬉しくなったりする.ああ,こうしてまた眠れぬ夜が始まっていくのである.

宇宙の外には何がある?

★大河内大先生に愚かにも挑む!★〜その勇気と実行力はほめてあげよう!小谷,偉いぞ!!!〜

★小谷不思議発見!!★

1+1=2となるのは本当だろうか?1+1=1/2という人もいる.それも本当だろうか?君達は”いち”という言葉を何気なくよく使っている.まして,いちだけではなく,”さん”や”よん”,”はちじゅう”などという数字を当然のように数学以外の教科にも使っている.俺は思う.「いちというのは何だろうか?何を基準としていちといっているのだろうか」君達が”いち”というものを見つけたら,教えてもらいたい.といっても見つけられるはずはないだろう.だが,その”いち”という数字を自分で勝手に基準を作って考えてみると面白いだろう.例えば,人の半分の体を基準とすると,左半分を1,右半分を1とする.するとどうだろうか,左半分と右半分を加えると1+1=1となり,一人の体が出来上がってしまう.と考える人もいれば,もっと細かい事を基準として考える人もいる.自分で勝手に基準を作って考えれば十人十色の考えが生まれてくる.こんな風に考えると数字というのは不思議なもので,俺には俺だけの数字が生まれてくるのである.きっと君達には分からないだろう.私も書きたい事が上手に書けなく,分からなくなってきたからである.が,簡単にいうと,数字というのは不思議で未だ正体がないという事である.しかし,私は数字だけでなくもう2つ不思議に思っているのがある.それは”ことわざ”と”死後”というものである.俺はこのことわざについて,2つの疑問を持っている.

1つの疑問をだす前に,この2つの文をよく考えてもらいたい.「急がば回れ」と「善は急げ」である.急がば回れというのは,危険な手段を取るより,時間がかかっても安全な方法を取った方が早く目的に達する事ができるという意味であり,善は急げというのは,よい事は気が変わったり,じゃまが入ったりしないうちに早くやった方がよいという意味である.この2文何も悪くはないと思うだろう.が,俺はさっぱり筋が通らないのである.確かに1文1文見れば,よく分かるが,この2文を一緒に出されてはどっちかが間違っているようにしか思えないのである.例えば,俺は友達と二人で登山にいった.頂上近くになるにつれて山が険しくなっている.俺達二人は最後の力を振り絞って登ろうとする.すると,頂上で「助けてくれ〜」と男が助けを求めている.俺と友達は何とか助けてあげようと思うため一刻も早く頂上を目指す.目の前は険しく急な崖である.しかし俺はそんな事は構わずその崖を登ろうとする.すると友達が「小谷!”急がば回れ”だぞ.こっちに頂上にいく回り道があるからこっちからいこうぜ.」と言う.が,俺は「今はそれどころじゃない.善は急げだぞ.人の命がかかってるんだからこの崖を登ろうぜ.」と言い,二人とも迷っている.ことわざの意味からすればどちらも間違ってはいないが,結局は二つのうちどちらかを選択しなければならない.二人とも別々に行くという危ない事はしないのだから結局はどちらかが間違っている事になってしまうのである.そして二人はどちらかの方法を取って頂上に行き,男を助けたのである.というような作り話だが作り話の中なので笑い話になるかもしれない.が,もし本当にそういう立場に置かれたら君達はどちらを選択するだろうか?1つ目の疑問というのは今会話にしたように,ことわざには反対の意味を持つものもあれば,似た意味を持つものもある.似た意味を持つことわざというのは分かるが,反対の意味を持つことわざというのは何故あるのだろうか?

ことわざによって,さっきの話のように,自分の行動に影響を及ぼす人はまずいないだろう.が,ことわざというのは,昔から人間の知恵によってできたものである.なので昔の人はことわざによって自分の人生が変わっていったに違いない.上の疑問に戻るが,何故,反対の意味を持つことわざというのはあるのだろうか?それはきっと昔の人の人生を変えてしまうことわざというものをなるべく多く作って,人と全く同じ人生にならないようにという願によって作られたのであろう.それによって,同じ意味のことわざも多くできたのであろう.しかし,昔の人の人生を変える事ができたのなら,何故,人を批判したり,皮肉ったりしたことわざが生まれたのだろうか?

2つ目の疑問というのはいろんなことわざがあるが,それは本当にそういう意味なのか?という事である.誰がことわざの意味を作ったかどうか知らないが,それだけの意味しかないのであろうか.もっと他の角度からみたら意味が変わるのではないだろうか?例えば,「焼け石に水」ということわざがある.このことわざの意味は,火に焼けた石に少しぐらい水をかけても,すぐ蒸発して石はさめない.非常に悪い状態では少しの助けでは何の効き目もないという事である.が,本当にこの意味なのだろうか?もしかしたら,何の効き目もない事でもあきらめずに試してみるという意味かもしれない.また,何の効き目もないならば,あきらめて違う方法を考えなという意味かもしれない.もう一つ例に取ると,「石橋を叩いて渡る.」ということわざがある.この意味は石橋を崩れないかどうか叩いて確かめてから渡るように,非常に用心深く物事を行う事である.しかし,そんな意味ではなく,次の奴がきたら崩れるように石橋を強くひびが入るくらいまで叩いて渡るというように,世の中真面目に生きていたら必ず壁にぶつかってしまう,そんなときはどんな手を使ってもその壁を越えなくてはならない.という意味かもしれない.そんな馬鹿げている考えをするのは俺くらいかもしれないが,よく考えてみると俺だけのことわざになり,結構面白い.

数字とことわざは俺の中で奥が深いものであり,不思議な事ばかりが浮かんでくるものである.そして,今まで生きている中で(まだ16年しか生きていないが)一番不思議に思っている事は,死んでこれからどうなるのかという死後の事である.この事は3年ぐらい前からちょくちょく頭に浮かんできた事である.生きているうちは誰でも死後について知りたい事がいっぱいあるだろう.俺は死後についてとても知りたいときがあったが,現在はそんなに知りたいとは思わない.知る事よりも,最低50才までは生きたい.はっきり言って今は死ぬのが怖い.たまらなく怖い.まだやりたい事がいっぱいあるからだ.しかし1年ぐらい前は,死後について自分で考えた事がいっぱいあった.その時は死んだら死んだで睡眠しているときと同じように頭の中はなにも考える事ができなく,空っぽで真っ暗な感じで永久に目覚める事ができない.と思ったり,死んだら今度は虫か何かに生まれてきてしまうが,その虫の世界は現在生きている人間の世界と全く同じになっていて,ただ人間で生きていたこと(考えたり,暗記したり,心に残っていたりした事)だけが消えてなくなってしまい,また,同じように生きて行くのだろうなどと自分で考えていた.どんなに考えても答は見つからない.数学の難しい問題よりも数十倍,数百倍難しい問題ということは分かってはいてもどうしてもあの時は死後について考えてしまった.今はとにかく死ぬまでにいろんなことをやろうと思っている.そして,”10年後の自分”に書いた死後についてよりも素晴らしい考えを1つだけでいいから生み出しで行けたらよいと思っている.君達は自分が死んだらどうなると思いますか?そして死ぬのは怖いですか?

by 札幌に住む16才の男の子より

はっきり言ってこの紙を読んで自分でも何を言いたいのかがはっきりしていないと思う.俺の考えは甘かった.俺は書きたいことが頭の中でポンポン浮かんでくるが,それを上手に書くことができない.初めて体験したからだとかではなく,自分の力不足と言うのが分かった.だから,国語のテストも悪いと言うのが前以上によく分かった.が,大河内先生に”負けました”といっているのではない.今度もしやるチャンスがあれば,もう1回やりたいと思う.その時は,”現在の小谷まで”シリーズを書きたいと思う.(本当言うと今回は昔,新潟にいたときの話をしようと思ったけどネタがつきたんだよな.)とにかく,この更紙1枚だけでも時間が詰まっているし,作者の主張というものが詰まっているということが分かったわけである.いつもは読んでいるだけだったけど,書いてみると,結構自分の世界に入ることができて,すごく新鮮な気分になって眠気もぶっとんでしまう.新鮮な気分になりたい方,今度トライして見ませんか.上手くまとめたところで,えっまとめてない?「お前はもうネタがつきてしまって書くことがないからこんなことを書いているのだろう.」ピンポーン正解.

自分が情けなくなってきたのでもう終わりにしたいと思います.しかし,この経験を少し積み重ねれば,打倒!!大河内も目ではないはずである.この最後の文章まで読んでくれた方々,ありがとうございました.小谷日出貴はもう少し大きくなって,皆さんの前に現れたいと思います.皆さんお元気で.

Printed in Tounn.1993.
Written by Y.O^kouchi.1993.
Copyright 1987,1993 MAT Inc.
MAT is Mathematics Assist Team Corporation.