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Weekly Mathematics Magazine
《数学通信》
MAT-37 1993.3.17(Wed)

★神様なんかいないんだよ!!★〜教師への反乱〜

神様なんかいないんだよ!!

日本には憲法があって(もちろん他の国にもあるのだけれども),憲法で誰がどんな宗教を信仰してもいいとなっている.信仰の自由である.いい事である.大切な事である.人の心を束縛する事など誰にもできないのだから当然であるが,それがわからない人間が多いし,それほどに人間は愚かしいのである.

だから,日本では誰がどんな宗教を信仰していてもいいし,神様を信仰しなくてもいい.(他の国でもそうではあるのだが.)

仏教を信仰してもいいし,キリスト教を信仰してもいい.神道でもいい.まったくの自由である.だから俺のように神様なんかいないんだと思っている者がいてもいいのである.まあ,多くの日本人が無神論者ではあるのだが.

無神論者は無神論者でいい.でも,俺が許せないのは,無神論者の日本人が困ったときだけ,苦しくてどうしようもないときだけ,そんなときだけ神様といって神頼みをする,そのいい加減さが大嫌いなのである.普段,それこそ何も信仰心を示しもしないのに,都合が悪くなると信仰心まがいのものを示すなど,そんな身勝手さが許せない.そんな日本人と,そんな無神論者と同等にみられる事が悔しい.

俺は無神論者である.はっきり断言できる.無神論者である.だから,どんな状況におちいっても,どんな窮地に追いつめられても,絶対に言わない.”神様,助けてください!!”などと.そんな情けない台詞は絶対に吐かないし,心の片隅にさえ思い起こさない.他の無神論者,えせ無神論者と同じに見てもらいたくない.

俺が中学3年生の時である.学年主任で社会科の先生が,受験を間近に控えたある日,俺達のクラスの授業中に言った.”目を閉じて,神様の姿を想像して見ろ.”と.突然の事だったので,なんだ?と思ったが,言われた通り目を閉じて,神様を想像しようとしてみた.……,何も浮かんでこない.そう,その時から俺には神様の姿が想像できなかった.何しろ当時ですら,神様がどうして人の形をしているのかが不思議に思えたし,みんなが同じ神様を想像するのなんかおかしいと思っていたくらいだから.しばらくするとその先生が,ちょっとつっぱった生徒に対して,”想像した神様はどんな形をしていた?”と聞いた.その生徒は,”何も見えませんでした.”

と答えた.その先生への反抗からか,それとも本当に何も想像できなかったのか,それは俺には推し量る術がない.だが,その言葉を聞いた先生は,”おまえは本当にそう思っているのか,それは思い上がりだ,おごりだ,それこそ不遜である.”と怒りだした.”そんな事だからおまえは,……,”とその生徒に文句を言い出した.

その時,俺の心の中に”抵抗”という炎が燃えだした.どうして神様が想像できないと言うだけで思い上がっていると言われなければならないのか,誰が何を信じても自由であるのだから,心の中に土足で入り込んでくるなんて,それは教師であっても許せない,と.俺だって何も想像できなかったんだぞ,俺は神様に形があるなんて思っていないんだから,目に見えないと思っているから何も想像できなかったんだけど,だからといって,神様が見えなければならないなんて押しつける権利がおまえにあるのか!?それも真顔で怒りだして,しかもこの受験間近でピリピリしているときに!!

それまでの俺はいい子であった.俗に言う,優等生を演じていた.自分でも知らず知らずのうちに気がついたときには優等生というレッテルを張られていて,そのレッテルに縛り付けられて苦しんでいた.まあ,俺が育った町は小さな町だから,そんなところで優等生と言ってもたかがしれているし,優等生と言っても学校で1番になった訳でもない.そして,その優等生も中学校時代だけであったが.そんな俺である,今のように何事にも,自分自身にも自信が持てるような俺ではなかった,だから,心の中のその叫びを,”抵抗”という名の炎の叫びを口にすることができずに,ただ,じっと心の中に怒りを燃やすだけしかできなかった.その時,本当に悲しかった.情けなかった.みんなの前でさらし者にされている級友をただ見捨てることしかできなかったのである.特に親しい訳でもなく,どちらかと言えばクラスからはずされているような生徒ではあった.だが,そんなことが問題なのではない.いい子であると言うレッテルをはがせなかった自分の軟弱さが一番許せないのである.

その時心の中に灯した”抵抗”という炎は,それ以後今だに俺の心の中で燃え続けている.だからこそ,この北の大地,北海道まで来れたのかもしれない.

忘れない.あの時のことは.悔しくて悔しくて,まだ未熟で言いたいことが思うように言葉にならない自分が歯がゆくて,ただ悔しかった.教師になろうと思った.教師になろうと思っていた.だが,絶対にあんな教師にはならないと誓った.生徒の心の中に土足で入ってきて,力づくで傷つけ,反論の機会も与えてくれないような,そんな一方的な教師には絶対にならないぞと誓った.

そう,不信感など些細なことで芽生える.俺も知らず知らずの内に生徒の心に不信感を芽生えさせているかもしれない.もし,そうであれば,それは俺の力不足である.まだまだ人として未熟だからである.教師として未熟だからである.あの時の志しを失っているからである.そうではない!そう言い切るだけの自信はある.だが,人の心の中まではわからないから.ましてや,人の心を自分の思い通りにすることなど出来ないから.だから,より心の高みを目指して日々心に磨きをかけていくしかない.心を成長させていくしかない.教師として,人としてより高みにたどりつけるように.

神様なんかいないのだよ.もちろんいると信じている者はそれはそれでいい.だが,困ったときだけにしか神様を頼らないような,そんないい加減な者に神様を語る資格はない.神様という言葉を口にすることすら許されない.そう思う.

それ以前に,神様が人の形をしているなどという俗っぽい発想,宗教を金儲けに使った神社,仏閣,教会の欲深い坊主どもの口車に乗ってしまっているという浅はかさを捨てるべきである.

神様がいるとして(俺はいない,いるはずがないと確信している),俺に言わせれば,神様が人の形をしていなければならない理由はどこにもない.その発想こそが人の俗っぽさの証明でしかないことにどうして気がつかないのだろう.神に形があると説くのであれば,そう説く者達はその目でみたと言うのか?もちろん,見た,見ないと言う直接的なことだけで信じる,信じないと言うことにはならないであろう.だが,神という以上,それは人と比べるべきものではないはずである.いや比べられない絶対者であろう.(信者にすれば)であれば,なおさらではないだろうか?そんな絶対者神が,なぜ人の形をしている必然性があるのだろう?むしろそのこと事態が不自然である.まあ,もともと偶像化したのは,宗教を布教しようとしたことにその始まりがあるのだが,言葉のみで宗教を説けなかったと言う,布教者の無力さがそこにあるのである.そして,神様も自分達と同じ様な形をしていて欲しいという身勝手な希望が人の形をとらせたに過ぎないのである.

神様は,時に人の形をしているかもしれないが,時に万能工作機であったり,宇宙船であったりするかもしれない.それは,その人,その時代に,必要な形をとって現れるものであると考えることができるからである.だが,それは,神が人を愛していると言う前提に立った場合である.

神様が人を愛しているなんて.それこそ愚かである.神様はクソも人を,我々人間なんかを愛してはいないんだよ.いると仮定しても,俺はそう思う.神様が万人を愛しているとも思えないし,だからといって,自分を信じる者のみを救うなどということも思えない.だいたい人は神様に創られたのではなく,偶然の中の自然の摂理によって生まれてしまったものでしかない.そう,生まれてくるべきではなかったのに.

神様なんかいないんだよ.この世界に神様なんかいないんだよ.本当にいるのなら実際に姿を見せてこの世界を救ってみればいい.そうすれば人々は信仰心を持つのに.そう,信仰心とは畏怖の念である.恐怖心である.神な対する恐怖心こそが本当の信仰心である.そんなことはない!!そう反論する者もいるであろう.もちろん反論結構.憲法で信仰の自由が保障されているように,言論の自由も保障されている.反論大いに結構.俺はいつでも受けて立つ.

お互いの考えが一致しないのであれば,そう,結論は一つ.力ずくではなく,お互いの考えをひたすらに討論し続けるしかない.そしてどちらかが,論破されるまで,いやいやどちらかの心が動くまで話し合うしかない.

いつでも受けて立つよ.君達の全力の反論!ホッホッホ,自信のある者はいつでも自己主張をしにおいで.ただし,よほどの理論武装をしてこないと,フッフッフ返り討ちに遭わされるからね.

Printed in Tounn.1993.
Written by Y.O^kouchi.1993.
Copyright 1987,1993 MAT Inc.
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