毎週水曜日定期発行
Weekly Mathematics Magazine
《数学通信》
MAT-45 1993.5.12(Wed)

★秤屋の話★〜命の重さの計り方〜

いつからだろう?こんなにまでも世の中が,世界がわけが判らないくらいグチャグチャになっていったのは?確かつい先日まで,俺が小さかった頃は,いろいろな商売の店屋が軒を並べていたのだが.いつからだろう?猫も杓子もコンビニエンスストアーに変わっていったのは?

その昔,まだ日本が,いや世界が,今ほど複雑に絡み合っていない頃,今ほど技術的に発達していない頃,人々は仕事を分けあい,その生計を成り立たせていた.魚屋,八百屋,お菓子屋…などと.今でもわずかには残っているだろうが,そんな商売をしていたのでは喰っていけない.スーパーやコンビニエンスストアーなどが建ち並び手広く商売をしている.弁当からお菓子,書籍,さらには酒の類まで置いてある.そして,宅配便まで請け負う.こんなご時勢に単科の商売が通用するはずがない.お菓子屋だけでは暮らしていけない.そうなのだ.所詮お菓子だけでは商売は成り立たない時代なのである.なぜって?今はどこにでもお菓子が売っているから.それこそ,本屋にもお菓子が並んでいるのだ.こんなんでどうして商売ができる?お菓子だけで?

今はなんとせちがらく,余裕のない時代なんだろう.

でも,その昔には日本にも秤屋という商売があった.秤を作って売る商売である.もちろん今でも秤はあるが,今はそのほとんど全てがコンピュータ制御のものばかりで,大手電気メーカーの商売となっている.昔のような個人の,名人の仕事ではない.

そもそも秤とは?

秤とは,ものの重さを計る機械のことである.そして,[量る]というときは,秤,升などでものの重さや容積を量る事を意味し,[測る]というときは,ものさしなどで長さや深さなどの距離を測る事を意味する.そして,[計る]というときには,数や時間などを計る事を意味する.同じ[はかる]でも,対象が変わると漢字が変わる.これは日本人の豊かな感性の産物かも知れない.

では,いったいどんなものまで秤で計る事が出来るのだろう?

体重や,身長など目に見えるもの,形のあるものは,そのほとんどが何らかの方法ではかる事ができるであろう.しかし,目に見えないものは?

例えば愛情は?よく愛情が深いとか,愛情がないとか言うがいったい何を基準にしているのだろう?愛していると言うときに,死ぬほど愛しているとか,海よりも深く愛しているとか言うが,そんなに愛していたら溺れて本当に死んでしまうのではないだろうか.(例えだよ,例え,ばっかじゃないの?なんて言うなよ.わかってて言っているのだから.)というのは冗談で,結局単なる言葉の文でしかない.何一つ,基準などないのである.”君への愛情は海よりも深い!”そう言っている本人のただの思い込みでしかないのである.そういう事で,自分の愛情の深さを示したいだけなのである.もちろん,中にはそんなに愛してもいないのに,”君を死ぬほど愛しているよ!”と言う事で下心を満たそうとする者も現にいる,というよりも,そんな奴の方が多いのが現実である.俺に言わせれば,思っていないのに,そんな気もないのに,そんな歯の浮いた台詞を言う奴は,下心を隠しきれない奴でしかないと言う事である.

でも,もし,愛情をはかる秤があったなら,世の中きっとつまらない事だろうな.

昔,こんな話を読んだ事がある.それこそ,秤屋の話である.

その秤屋をいろいろなものをはかる秤を作っていた.美味しさをはかる秤,誠実度をはかる秤,美しさをはかる秤など.どれもその秤で調べるだけで,美味しさ60とか,美味しさ85だとか具体的な数値で分かるのである.その秤屋の秤は飛ぶように売れた.

あるとき,アイスクリームの美味しさをはかる秤を作った.この秤をアイスクリームにさすと秤に数字が現れて,そのアイスクリームの美味しさを表すものである.ある店のアイスクリームは70,別の店のアイスクリームは90,などというようにはかれるのである.この秤は,口コミであっという間に町中に広まった.続いて,秤屋はジュースの美味しさをはかる秤を作った.これもあっという間に売れに売れた.そればかりでなく,秤やが秤を作る度に,人気の店,不人気の店が決まった.

あるとき,秤屋は調子にのって,愛情をはかる秤を作った.その秤にかかったらその人の愛情の深さが具体的な数値となって現れてくるのである.その秤は,愛し合っている者どうしがお互いの手で握り合うと数字が現れて,その人の愛情が現れるようになっているのである.数字が現れる方を握っている方がその数字だけ愛されているというものである.数字が現れない方を握っている方がその数字だけ相手を愛しているというものである.

予想に違わずその秤も飛ぶように売れた.あっという間に町中の女の子がその秤を持って歩くようになった.

そんなある日,秤屋はつき合っていた恋人から別れ話を持ち出された.なぜ急に?秤屋にはその理由が全く理解できなかった.他につきあっている恋人がいたわけではなし,分かれる理由が見つからないのである.秤屋が恋人にたずねると,恋人は「私を100も愛している人がいたから,私はその人を愛するわ.」と答えた.「ちょ,ちょっと待ってよ!!君を100も愛しているって?何の話しなんだい?」「あなたが作った,愛情をはかる秤の事よ.」「だって,あれは….」「あなたの作る秤はすごいわ.アイスクリームの美味しさもその通りだったし,ジュースの美味しさもあの秤通り,90の店のジュースより,95の店のジュースの方が美味しかったわ.あなたの作る秤はすごいわね.」「ち,違うよ,それは!!….」「あの秤は….」

秤屋には理解できなかった.秤屋は今まで全て冗談で秤を作ってきた.どだい無理なのである.美味しさを計るとか,誠実度を計るとか,美しさを計るとか,ましてや愛情は計るなど.目に見えない,形のない心の中の産物を具体的に数値化して計るなど.秤屋は遊びのつもりで作ってみたのである.それがたまたま売れたので,調子にのっていろいろ作ってみたらそれらも全部売れただけの事なのです.

秤屋は心の中で大声で叫んだ.”そんなのは嘘っぱちなんだよ.そんな計りで愛情なんか計れるはずないんだよ!!!”しかし,そんな言葉が恋人に届くはずもなく,恋人は去っていった.

同じように,では,命の重さはなんで計る?生命保険で計るか?とんでもない話だ.20才の人と80才の人どちらの命が重いか?人間の命と犬,猫の命,虫の命とではどちらが重いか?

単純に,20才の人の命,若いから,これから先,まだまだ長い人生が残っているから.人間の命,犬猫なんか家畜でしょ,虫けらなんかと比べないで欲しいな,とは言えないと思う.

目に見えないから,形がないから,感情に左右されるのである.具体的な数値となって目の前に現れないから人によって感じ方が違うのである.

80才の人の身内にすれば,可愛がってもらった孫からすれば,20才のどこの馬の骨ともつかない奴の命よりも80才の老人の命の方がずっと重いはずである.

命の重さに,何年生きたから,何年生きれるからと言う事は関係ないと思う.輪廻(リインカネーション)を信じて疑わないというわけではないが,ひょっとしたら,命というのは繰り返されているのかもしれない.今人間の姿をしていても今度生まれてくるときは,数日しか生きれない虫けらになって生まれてくるかもしれない.そうなったときに,人間の命の方が重いと言いきれるだろうか?(もちろん,俺は輪廻など信じていないが!)

俺は,どちらが重いかとを答えられない.でも,では,虫けらの命を粗末にしていないかと問いつめられたときに,虫も犬猫も人間も同じ重さの命なんだから,そのつもりで扱っている!とは言えない.平気で虫も殺すし,自分の都合で昔飼ってた猫を処分もした.札幌に転勤になったときにそれまで飼っていた猫を犬猫病院に頼んで処分してきた.決して好んでしたわけではないが,自分の手で,家族同様に暮らしてきた猫の命を奪ってしまった.もし,この次生まれ変われるとしても,人間には生まれ変われないだろうし,生まれ変わりたくもない.

命ってなんだろう?1つ1つの命にはどれくらいの重さがあるのだろう?もし,命の重さを計れる秤があったらぜひはかってみたい.

ひょっとしたら,今地球上に存在する全ての生物のなかで,人間の命が一番軽いかではないのだろうか?俺はそう思う事がときどきあるのだが….

君達はどう思う?

秤で計れるならば,そんな計りがあるのなら,ぜひ一度計ってみたい.地球の重さと,命の重さを.

Printed in Tounn.1993.
Written by Y.O^kouchi.1993.
Copyright 1987,1993 MAT Inc.
MAT is Mathematics Assist Team Corporation.