毎週水曜日定期発行
Weekly Mathematics Magazine
《数学通信》
MAT-54 1993.7.14(Wed)

★なめてもらっては困る!!中途半端な勉強で太刀打ちできるほどに俺は甘くもなければ,優しくもないからな!!★

期末考査の味はいかがでしたかな?なかなか喰い応えがあったでしょう!はっきり言って,君達勉強が無茶苦茶足りないんでない?2年生になって,新しいクラスにも馴染んできて,新しい友達もできて,中間試験も経験したし,まあ,何とかなるかな?!と思っているのではないか?甘い甘い甘い甘い!はっきり言おう!そんなに甘くはないぜ,人生は!

いいかい,君達は『受験』という大きな試練に立ち向かっていかなければいけないのである.それは,望むと望まざるとに関わらずのことである.どれほど文句を言おうが,泣きわめこうが,現実という大きく分厚い壁が,情け容赦なく押し寄せてくるのである.悲しいかな,仕方がないことである.

平均点的には,けっして悪い点数ではない.というよりも,予想していたよりもずっといい点数であった.が,だんご状態である.平均点付近にみんなが固まっていて,おしくらまんじゅうをしているの図である.もっと高得点者がいてもいいような気がするのだが,・・・.

俺が君達に要求する水準は,ハッキリ言って高いぞ.出来てあたりまえ,できなきゃおかしい.何しろ,俺が教えているのだから.

大変なのは解るよ.君達が勉強しなければならないのは数学だけではない.英語も,国語も,理科も,社会もと,それこそなにからなにまで勉強しなければならないし,なにからなにまで力を養わなければならない.加えて,その合間を縫うがごとく部活に命を懸けて,恋に溺れたりして,忙しい毎日を送らなければならない.

でも,それを”充実”と呼ぶのだし,そんな時代があるということが何よりも素晴らしいではないか!

言っておくが,俺から優しい言葉を期待するなよ!(まあ,そんなあまちゃんはもういないと思うが・・・ .でも,可愛い子には優しいから.)優しい言葉をかけてほしければ,可愛い子になれ!違う違う!優しい言葉をかけてほしければ,そんな言葉をかけてくれる先生のところへ行けばいい.”しっかりやれ”と励ましてほしければ,そう励ましてくれる先生のところへ行けばいい.

俺はただひたすらに君達にカツを入れ続けるのみである.

いいかい?!俺にすら太刀打ちできない者が,受験という大きなプレッシャーに太刀打ちできるとは思えない.そう,俺が君達の前に立ちはだかって,受験という強敵の練習相手をしてあげよう.感謝せいよ!

本当に,もう一度自分の勉強の仕方を見直して,このままではいけない!!という危機感を持って夏休みに突入してほしい!講習もある!しっかりと腰を落ちつけて勉強するにはいい時期である.実力をつけるには打ってつけである.

要は,君の,自分自身の心がけ,意識の問題なのだよ!!俺が差し出す手をしっかりと握り返せ!!

★時間の謎★〜年をとるのは是である!〜その一〜

時間の正体は,ハッキリ言って不明である.何が時間を司るのか?時間にどんな意味があるのか?そして,我々のこの世界を流れている時間はどこから来て,そしてどこへ流れていっているのか?未来とは何か?過去とは何か?考えれば考えるほど訳が分からなくなるし,疑問が増えていくばかりである.

残念ながら,今の俺の力では,いや,今の人類の科学力では『時間』というものを解明することは不可能である.確かに,物理学の分野では,『時間』の謎にかなり迫っているようではあるが,それもまだまだ,時間の正体に肉薄するものではないようである.まあ,有り体に言えば,相手が悪いのである.

そこで,というわけではないが,今回は『時間』について,少し考えてみようと思う.といっても,現代の最先端の物理学でさえ正体を突き止められない『時間』に正面からぶつかっていったところで,あっさりと返り討ちにあうのが関の山である.加えて,あまり難しいことを話しても,今の君達には解らないだろうから.仕方がない,残念ながらまだまだレディネスが足りないのだから.

もっと簡単な話である.もっと感覚的な話である.

どうして,『時間』は年をとると早く過ぎていくように感じるのか?ということである.

思い出してみてほしい.自分が小学生だった頃のことを.あの頃は,一日があっと言う間に過ぎていったのに,一年はなかなか過ぎていかなかったはずである.それが,中学生になり,高校生になると,一日が長く感じるが,一年は短く感じるようになるのである.

年寄りは,失礼!年輩の者は,それは年をとった証拠だよ.という一言で済ましてしまうが,本当にそれだけだろうか?言われれば確かにそうかな?!と思わなくもない.が,ならば,何故,年をとると一年が早く過ぎていくように感じるのだろうか?

時間の流れは基本的には平等である.男だとか,女だとか,金持ちだとか,貧乏だとか,年寄りとか,若いとか,そんなことで不公平が起きるようなものではない.それこそ,誰にでも平等に流れていくものである.

だからこそ,よけいに不思議に思うのである.何故,感じ方が違うのか?と.

一つには,充実した”時”を送っているかいないか,ということが考えられる.充実しているということは,その時がものすごく楽しいということである.その時が楽しければ,時間は短く感じられる.人の感性などその程度のものでしかない.逆に,充実していなければ,それこそつまらない毎日の積み重ねであれば,時間は長く感じられるものである.

当たり前のことである.

が,それだけでは,年と共に感じ方が変わっていくことの理由には,説明にはならない.それだけの説明であれば,子どもの頃はつまらない毎日だったことになるし,今はそれこそ誰もが充実した毎日を送っていることになってしまう.そんなはずはない.毎日を充実させている者が,果たしてどれほどいる?そう,君達の中に?それこそ数えるほどしかいないぞ!!第一,子どもの頃はとにかく毎日遊んでいられて楽しかったのだから.

ずっと考えていた.どうしてだろう?何でだろう?それこそ何年も考えていたし,何年も温め続けていた.

そして,この間,ふと思ったのである.ふと気がついたのである.その答えが,正しいとか,正しくないとか,そういうことではなくて,自分で答えを見つけてこれた,答えらしきものを見つけてこれたということが大切なのである.

『時間』を把握するサイクルが年と共に長くなっているのではないのだろうか?ということである.

子どもの頃,小学生の頃などは,遊んでいる時間が,遊べる時間が,考えられる時間の全てといっても過言ではない.せいぜい,明日は何をするかな?という程度の,そんな未来しか考えられない.遊ぶことに夢中になっていて,充実した時間を過ごして,一日が終わる.だからこそ,子どもの頃は一日が短かったのである.

でも,子どもの頃は,一年後のことなどには思いも馳せることはなかった.夏休みが終わったときに,冬休みが来ればいいなと思っても,それは漠然としたことで,ましてや本気で考えているわけでもない.子どもの『時間』のサイクルは,一日なのである.

ところが,年を重ねていくと,一ヶ月後の計画を立てるようになる.一年を見通して計画を立て,いつ何をするか,何が出来るのか,を真剣に考えるようになる.

さらに年を重ねていくと,一年では出来ないことに挑み始める.二年,三年という,あるいは,十年という長い時間をかけて一つのことを成し遂げようとする.

そう,意識の中の『時間』のサイクルが確実に長くなっていくのである.

一日が一つのサイクルであったときには,一年はその365倍もある.が,一ヶ月が一つのサイクルであるときには,一年はその12倍でしかない.さらには,半年単位でものを考えるようになると,一年はその2倍でしかない.

感覚の問題であるから,感覚的に言うのである. 365倍よりも,12倍の方が,2倍の方が短いのは当然である.

つまり,年と共に,一年が短く感じるというのは,自分の中にある『時間』というサイクルがどんどん長くなっていくからである.充実していようが,していなかろうが,結局のところは,そのサイクルに影響されるのである.

〜続く〜

Printed in Tounn.1993.
Written by Y.O^kouchi.1993.
Copyright 1987,1993 MAT Inc.
MAT is Mathematics Assist Team Corporation.