毎週水曜日定期発行
Weekly Mathematics Magazine
《数学通信》
MAT-57 1993.9.1(Wed)

★点,線,面★〜認識力を試す!〜

ちょっと数学的な話をしてみようか?

中学校で聞いたことがあるかもしれないが,まあ,聞いたことがあればそれにこしたことはないので.気楽に読んでほしい.

『点』とはなんぞや?『線』とはなんぞや?『面』とはなんぞや?これが今回の問いかけである.

数学的に定義してもらいたい.直感的ではなく,感覚的ではなく,曖昧ではなく,理路整然とである.ただ,こればっかりは知らないと難しい問題ではあるのだが・・・.

【定義】

『点』とは,大きさがなく,存在のみを示すもの.

『線』とは,太さがなく,長さのみを示すもの.かつ,両端 に無限に続くもの.

『面』とは,厚さがなく,広がりのみを示すもの.かつ,2 次元に無限の広がりを持つもの.

以上のように定義することが出来る.『線』の同義語として,しばしば「直線」という言葉が使われるが,この場合の『線』とは,「直線」も「曲線」も含んでの『線』である.(ちょっと話しが逸れるが,『線分』というのがある.これは,『直線』の中で,両端が決められているもの,つまりは『有限』の長さを持つ直線,というよりも『有限』の長さしか持てない直線をさす.そして,『半直線』というものもある.これは,始点,つまり一方の端が決められているが,片方は『無限』に伸びていくというものである.この,『有限』,『無限』の概念は実は言葉ほど簡単なものではない.この点については近いうちに話したいと思うのだが・・・.)

さて,ここでちょっと君達に考えてもらいたい.一番易しいところで,『線』についてである.【定義】のところで,『線』とは,太さがなく,長さのみを示すもの.かつ,両端に無限に続くもの.と書いたが,太さがないのにどうして『線』を『線』として認識できるのだろう?

ノートに鉛筆で定規を用いて『線』を引く.当然のごとく,そのノートに引かれた『線』は,太さを持った歴然とした『線』である.白いノートに,黒炭の後がくっきりと残り,拡大鏡でのぞけば,幅0.数ミリという長さ?厚さ?幅を持つしっかりとした『線』である.

幅を持っているからノートに書いたときに目に見えるのである.

本当だろうか?

数学的な【定義】からいえば,『線』には幅はないのである.でも幅がなければ見ることは出来ないのではないか?認識することは出来ないのではないか?こう考えるのがごく一般的であろうし,君達も多分そうだろうと思う.

確かに,ノートの上で,今までのような数学的な学習を通してきた君達には無理からぬ発想である.だから,君達が悪いとはいわない.が,もうちょっと考えてみてほしい.

ここ数年のスポーツ界の変更点,特にコートに対する考え方の変化を例に取ってみると,『線』の概念が理解できると思うし,幅を持たなくても見ることが出来る,認識することが出来るということが理解できるはずである.

たとえば,テニスのコート,以前であれば,もちろん今もそうであろうが,ラインテープで,コートを区切る.打ったサーブが,ラインテープ上で弾めば,「オンライン」ということで,相手のポイントとなる.『線』,英語で『Line』,直感的に幅があるものとして認識してしまう.が,室内コートを例に取るとちょっと違ってくる.最近の室内コートはかなりおしゃれで,ラインテープで,コートを描くという野暮なことはしなくなってきている.ではどうするのか?簡単である.色分けするのである.コートの内部と外部とで色分けする.内部が青なら,外部が赤というようにである.当然内部もさらに色分けが必要であるから,内部もフロントの方の右を緑,左の方を黄色というようにである.4色ぐらい使えば充分にコートを色分けすることが出来るし,美しく描くこともできる.するとである.コートを区切るのは,ラインテープではなく,本物の『線』,『Line』になるのである.内部と外部を隔てる色と色の境には,幅を持つ『線』は存在しなくなり,前述の【定義】に従った『線』が出現するのである.

難しいかもしれない.実物を見ないとなかなか想像できないかもしれないし,俺の言っていることが理解できないかもしれない.

そう,簡単な例を挙げると,ノートに鉛筆で「閉じた図形」(四角形や三角形,星形等々,要は,内部と外部とに明確に区切られている図形)を描く.あまり大きいのを書くと大変だから小さめのを書く.だからといってあまり小さいと,よく判らなくなるから,適当な大きさのものを書く.そして,内部を丁寧に真っ黒に鉛筆で塗りつぶすのである.いいかい?隙間なく,びっしりと,本当に丁寧にである.斑もなくである.

すると,その図形の内部と外部を分けているのは?そう,『線』である.紛れもなく,太さ,幅を持たない理論的な『線』である.

さて,さて,『線』が理解できただろうか?しっかりと認識できただろうか?判っているようでいて,以外と判っていないものであるし,理解できそうで,以外と理解できないものでもある.

同じように考えると,『面』も厚さがないということが理解できると思う.

どんな例がいいだろうか?『線』ほど上手い例が見あたらないから困るのだが,そうだな,たとえば,キューブ(立方体)を想像してほしい.ものすごく精巧に作られた真平らなキューブ,まあ,適当でもいいのだけれど,要は,キューブを,各平面を色分けするんだよ.それを横から,真横から見つめてごらん.厚さがないでしょう.それが『平面』である.(ちょっとたとえが悪いかな?想像力が豊かでないとダメなんだけれど.)

さて,今日のメインの問題である.

『点』とは,大きさがなく,存在のみを示すもの.では,大きさがないのに何故存在が認識できるのか?ここに今回の主たる問題点がある.そして,ここに今回のサブテーマである,認識力の問題がある.

大きさがないのに,存在が認識できる.これはどう説明すればいいのか?

ちょっと考えてみてほしい.

たとえば,一次元の世界,そこで,その世界で住む人がいるとする.すると,その世界の人々は『点』で表現されることになる.すると,その世界の人々は,大きさを持たないことになる.大きさがないのにどうして人として認識できるのか?

と,考えるから,よけいに判らなくなるのだが・・・.

こう考えてみてほしい.認識するのは,別に視覚に頼り切るものではない.聴覚,臭覚,触覚等々による認識もある.たとえば,アンモニアを例に取ろう.気体のアンモニアは,当然のごとく,目では見えない.あったり前である.が,アンモニアが,自分の近くにあれば,自分の周辺に漂っていれば,当然その臭いでアンモニアを認識することが出来る.

まあ,厳密な意味においていえば,気体だろうが,何だろうが,大きさがある.単に視覚で,人間の視覚能力では識別できないくらいに小さな大きさになっているだけで,大きさは歴然としたものとしてある.だから,厳密な意味においては例にならないかもしれない.

が,要点は似ているので,それを元に想像してもらえれば,『点』の認識も出来るのではないだろうか?

ちょっと無理があるだろうか?

要は,認識することは,大きさに頼るものではないということが言いたいのである.認識とは,目で見て,手で触れて,耳で聞いて,舌でなめて,鼻でかいで,という五感にのみ行われるものではなく,『思考』という概念世界ででも行えるのである.当然,そのためにはそれなりの知識,力が必要になっては来るのだが,そして,それが想像力であったりするのだが.

『点』には大きさがない.が,確かなものとして,その存在が認識されているし,現に我々もその存在を認識しなければならない.大切なことであるし,大きな問題である.

まあ,たまに頭を使うのは大切なことである.ちょっと真剣に考えてみてほしい.思う存分苦しんで,悩んで,そして,その苦しみの中から,数学の面白さの一端でも拾ってもらえるといいのだけれど.

Printed in Tounn.1993.
Written by Y.O^kouchi.1993.
Copyright 1987,1993 MAT Inc.
MAT is Mathematics Assist Team Corporation.