毎週水曜日定期発行
Weekly Mathematics Magazine
《数学通信》
MAT-58 1993.9.8(Wed)

★無限を見つめる.★〜Part1:無限への誘い!!〜

『無限』言葉としては知っているかもしれないが,概念としても解っているが,『無限』を想像することは難しい.というより,想像することは出来ない,と言ってもいい.

考えてみてごらん?今,基礎解析で微分法を,極限値を習っているから,ちょっとは解ると思うけれども,ちょっとまあ考えてごらん.君達の若い頭で,柔らかい頭で悩みながら考えてみてごらん.

ときどき考えてみる.『無限』とはなんだろう?『無限とはどんな状態なのだろう?』

数学を専攻してきたからだろうか?どうしても数学的な発想が先に立ってしまう.そして考えていくと,背筋がぞぞぞっと寒くなるような恐怖感にとりつかれる.”こわい!”そう感じるのである.

例えば,直線でも,平面でもいい.頭の中に描いてみる.その直線上に,その平面上に自分自身をイメージするのである.直線は両端に無限に続く線である.当然のごとくに終わりがない.その直線上を歩き続ける自分自身を思い浮かべる.頭の中にイメージした『無限』を,イメージの中ででいいから自分自身で体験したいと思うからこそ,直線上に自分自身のコピーを置くのである.

ただひたすらに歩き続ける,何一つとして変わらない,真っ白な世界の直線上を歩き続けるのである.歩きながらふと思う.

「何のために俺はこうして歩いているのだろう?」「俺はどこから来て,そしてどこへ行こうとしているのだろう?」

自分のイメージの世界で自分自身が迷ってしまうのである.

ときどきある,というよりもよくあると言った方が正しいかもしれない.俺の癖みたいなもので,自分の考えの中なのに,自分の意志が役に立たなくなることがある.自分で作り出した世界なのに,自分自身が存在する意味を失うのである.

歩きながら,前方に広がる無限の空間を見つめる.そして,振り返り,後方に広がる無限の空間を見つめる.そして,元の世界に戻れない自分自身に気がつく.すると,もうそこから一歩も歩き出せなくなる.歩かなければ,前に進まなければならないと解っていても,歩き出しても,前に進んでも,終わらない一本の直線が続くだけだということが解ってしまったから,解っているから,体が動かないのである.ただ立ちすくむしかないのである.それは,恐怖が体を縛りつけたと表現してもいいものである.背筋に寒気が走る.そんな自分を想像している自分自身の背中にも寒気が走る.その恐怖に負けて,それ以上想像することをやめてしまう.

君達にはそんな経験はないかな?

例えば,大きなプールいっぱいの水を小さなおちょこで全て汲み出せ!と言われても,それは恐怖としてのしかかってはこない.何故って?それは必ず終わる,終わらせれることであるから.

どんなに大きなプールで,どんなに沢山の水が入っていても,有限回の作業でそれは必ず汲み出しきれるからである.必ず終わりが訪れるからである.だからそこに恐怖を感じたりはしない.もちろん,馬鹿馬鹿しいし,とんでもないことだとも思うけれども.

地獄の話しの中で,「賽の河原」という場所がある.親不孝をした子ども達が,つまりは親よりも先に死んでしまった子ども達が行くところである.そこで,子ども達は親よりも先に死んでしまったという罪の償いに,河原の小石を積み上げるという作業をしなければならない.そして,大きな山を作り終えると,自分の罪が消えるのである.が,それほど簡単ではない.なぜなら,積み上げた小石を崩しに来る鬼がいるから.もう少しというところまでいくと,必ずその小石の山を鬼が崩してしまうのである.子ども達は再び山を作り始める.作っては崩され,作っては崩され,それこそ,未来永劫,終わりなくその作業を続けなければいけないのである.だからこそ,「地獄」なのであるが・・・.

言葉が違うが,『無限』と同義語的に使われる言葉として,『永遠』という言葉がある.

その昔,秦の始皇帝が不老不死を願ったように,竹取物語のくだりで,不老不死の薬が出てくるように,あるいは,西洋のパンパネラ(吸血鬼)伝説が,いつまでも語り継がれているように,人は本能的に永遠に生きたいと願う.それは,生まれたときから,自らの死を直感的に,本能的に感じとっているからである.その,死の恐怖から逃れたいともがくからである.

『永遠』に生きるって想像できる?わからないよね.永遠に生きたことがないものね.

基本的の部分で,西洋的な発想と東洋的な発想とでは異なる.例えば,『永遠』で考えてみると,西洋の発想は,直線的な永遠である.まっすぐな時間軸の流れの中を過去から未来へとただひたすらに流れていく,そんな『永遠』である.だからこそ,死なない一族,不死の一族としてのパンパネラ伝説が存在するのである.が,東洋は違う.東洋の発想は,円のように閉じた,つながった永遠である.それは,「輪廻」という言葉で的確に言い表すことが出来る.そう,人は,いや,命は,未来永劫繰り返し繰り返し生まれ変われる,そんな『永遠』である.

どちらが,いい,悪い,ということではなく,どちらも『永遠』=『無限』なのである.

が,悪いことは言わない.『永遠』になど生きない方がいい.『永遠』に生きたところで,人は所詮人でしかない.”神”になれないのである.神になれないということは,所詮人でしかないということは,生きていく上で,いつも迷い,悩み,苦しみ続けるということである.生きていく上で,失敗を繰り返すということである.後悔の日々を送るということである.

かの有名な「超人ロック」も言っている.何百年,何千年生きようが,人は人でしかない.知識や経験を増えていくが,だからといって完全になれるわけではない!と.(「超人ロック」は同人誌から有名になった,聖悠紀が,デビュー当時から書き続けているSFスペースオペラ,もちろん漫画であるが,である.)

ちょっと数学的なところから逸れてきたので,話しを元に戻すと,一番大きな数を,君達が知りうる限り一番大きな数を想像してみてほしい.その数に1足した数はいったいいくらだろう?

これが基本的な『無限』の発想の始まりである.

また話しが数学からずれていくような気がするのだが,・・・.

これと似た話しが,落語にある.ほら吹き和尚の話である.ある村に住む和尚はほらを吹くのが好きで好きでたまらない.そんなある日,和尚は,こんな立て札を立てた.「大物食いのほら吹き大会をいたす.我こそはと思わん者は我が寺へ!わしに勝った者には,賞金として十両進呈せり.」この立て札の噂はたちどころに各地に広がり,各地からほら吹き自慢が来るは来るは.我こそはほら吹き一番と自負するほら吹き強者が,和尚の寺へと集まった.寺の前に長い長い行列が出来た.

和尚は寺の一室に一人ずつ集まってきたほら吹き自慢を招き入れ,尋ねた.「お主は何を食らった?」と.ほら吹き自慢は答えた.「大きな大きな,それこそ山ほどもある鯨を食ろうたは!ハッハッハッ.」もちろんそんな鯨がいるわけではないし,そんな鯨を食いきれるはずもない.が,これは全てほらである.嘘八百である.どちらがすごい嘘をつけるか?という競争であるから,いいのである.和尚は,にたりと笑いたった一言,「・・・・・」と答えた.ほら吹き自慢は,肩を落とし,愕然とした.そう,和尚のたった一言は,自分のほらよりもすごいことがわかったから.自分の負けを認めざるを得ないから.

肩を落とし,ガックリとした足どりで寺を後にするほら吹き自慢を見て,他のほら吹き自慢は,我こそはと更なる意欲を燃え立たせた.

次のほら吹き自慢が言った.「わしは,この間浜辺を散歩していたら,あまりに天気が良くてのどが渇いたので,ちょっとのつもりで,海の水を飲んだんじゃよ.ほんとに,ただのどを潤すつもりでな.ところが,ついつい飲み過ぎて,気がついたら海の水をすべて飲み干していたんじゃな.これはいかん!そう思い,腹の中にしまい込んだ海の水を戻しておいたんだよ.恐れ入ったかね.」が,和尚,少しもあわてずただ一言,「わしは,・・・・・」自慢のほら吹きも,その一言で肩を落とし部屋を出ていった.

その次も,その次も同じである.我こそはと,自慢のほらを披露するが,すべて和尚の一言で自分の負けを認め寺を後にするのである.和尚は誰にも同じ言葉しか言っていない.

さて,和尚は何と言ったのだろうか?その一言が,その一言こそが無限への誘いの一言である.

〜続く〜

Printed in Tounn.1993.
Written by Y.O^kouchi.1993.
Copyright 1987,1993 MAT Inc.
MAT is Mathematics Assist Team Corporation.