情報化社会と学校教育
3-1 情報化時代のリテラシー
コンピュータを教師が教えるためだけに使う時代は過ぎ、子どもの新しい能力を育てるために、マルチメディアを積極的に活用する時代が始まっている。つまり、教えるための道具から、学ぶための環境へと推移している。情報化された時代や社会を、インターネットのようなコンピュータ・ネットワークが規定するとすると、従来のコンピュータ・リテラシーはいったいどのようなものであるか。
よく言われる「読み書き算盤」という言葉が、そこでどんな言葉に対応するかというと、
読み=情報収集 算盤=情報理解・選択・批判 書き=情報伝達、生成
ととらえることができる。文字通り読み書き算盤の時代から、コンピュータが教育に導入された時期に混乱したこともあったが、コンピュータ・ネットワーク時代になって、自然な拡張がなされることになった。
3-2 情報化時代の教育(ネットワーク・マルチメディア)
学校教育は情報化といわれる時代の変化の中で大きく変わろうとしている。その変化の軸になっているのが、「生涯学習社会」「国際化・情報化」「学校・家庭・社会の教育力」などである。「生涯学習社会」に要求されるのは、いやいや知識を詰め込まれることではなく、必要なときに必要な知識を手に入れる方法であり、その知識をかみ砕く理解力などであろう。「国際化・情報化」については、頭で分かるだけでなく、具体的な体験として理解し対応できるものでなくてはならない。また学校が自己完結的な考え方で行う教育には限界があり、「学校・家庭・社会の教育力」が統合された形で発揮して行かなくてはならない。
このような状況の中で、ネットワークやマルチメディアはどのような役割を果たすのであろうか。前述した3つの変化の軸に沿って述べれば、まず、学校を離れて外部に知識を求めるようになるであろう。求めるだけでなく、マルチメディアの特質であるインターラクティブ(双方向的・対話的)な関係をそこで持つことができ、そのような関係こそが生涯学習に必要となるものであろう。次に、学習の質が「受信・受容」型から、「発信・提案」型へと転換していくのではないか。国際化も情報化も特別な部分ととらえることも可能である。最後に、学級や学校はもっと開かれたものになって行くであろう。言うまでもなく学校・家庭・社会は今や孤立しており、子どもの教育に対して互いに責任を押しつけあうような状況も見える。この点において「学級王国」などという言葉は意味を失う。子どもは社会の財産である、という考え方もある通り、開かれた暖かな雰囲気の教育環境の構築が早急に急がれる。
コンピュータ・ネットワークを活用することで、学校という物理的な存在の価値は薄れる。教師も生徒も同じ場所にいなくてもコミュニケーションを取れるようになる。このことは人間同志のリアルな交わりを否定するものではなく、学習するということの本質、コミュニケートすることの本質を改めて問い直す行為となるのであろう。従来の通信教育をイメージするのではなく、コンピュータ・ネットワークという新たなテクノロジーを有効に生かすべく、教育関係者の総意が注がれることが期待される。
3-3 情報化時代のカリキュラム
コンピュータなどのテクノロジーの導入によって、新たに解決できる問題の種類・範囲が拡大し、数学的内容やその扱い方も変化してきている。つまり学習すべき重要な内容が新しいテクノロジーの導入によって変わってきているのである。教育環境の一部分としてコンピュータを考えると、これまでのカリキュラムを見直す視点が得られる。いつまでも従来の学校教育で行われてきたカリキュラムに縛り付けられることなく、この情報化時代にマッチした内容を創造する時期に来ているのではないだろうか。
例えば、種類として、
現実世界の生のデータを用いた統計の学習
現実の問題を扱う数学的モデル化
内容としては、
グラフ理論、離散数学、iteration(反復・繰り返し)
データ解析、差分方程式、反復法、recursion(再帰)
3-4 情報化時代の教師像
2-2で「知識や学習内容がこの「リンク」によってある意味で変容していくことは興味深い。」と述べた。インターネットに限らず、これ程にまで知識の増大してしまった社会では、必要な知識をすべて頭の中に入れておくことは不可能である。従ってこれからの教育では、知識そのものを教えることにはそれ程重要性はなくなり、どうしたら知識を手に入れることができるかといったことに価値が移る。知識そのものをとらえるのではなく、知識を指し示す(リンク)もの(ポインタ)をどうやって得るかが問題となる。
このような学習環境においては、従来の教師(知識を教え込む)ではとうてい対応できない。ではいったいどのような役割を果たすことが必要になるのであろうか。
まずは「ナビゲータ」としての資質が必要であろう。生徒が学んだり行動したりする指針を与えること。それは決して教師が強制するのではなく、あくまでも生徒の主体的な判断において選択し、責任を取っていくものでなくてはならない。
次には「モチベータ」。よく「インターネットを授業にどう使うのか」という質問をされるが、基本的には生徒のモチベータであってほしいと考えている。インターネットを通して、社会にはもっといろいろな人間や事柄があって、生きていくのはこんなにも素晴らしいというものをつかんでくれたならば、学習するにもぐんと力が入るのではないだろうか。教師も同様であり、よりよく生きるためのモチベーションを与えることが教育の目標ではないのか。
最後には「プロンプタ」。これはMS-DOSマシンに出てくる A> というプロンプトと一緒で、「入力促進」の意味を持つ。つまり生徒が持っている個性や良さといったものを引き出していく役割である。子どもが持っている欠点をあげ矯正させるだけではなく、個性の持ち味を十分に発揮させ、その結果総合的な人格の形成を見るという促進者としての資質が期待される。
コンピュータやネットワークの利用によって、生徒の活動や学習の範囲が飛躍的に広がり、教師の予想や対応能力を大幅に超えることが予想される。必然的に教師の役割も従来と変わってくるであろう。そこには教師自身が成長するチャンスがあり、「数学では自由に間違えても良い。教師は権威者ではなく、生徒と共に学ぶ者である。」という視点が当たり前のものとなる。テクノロジーの活用によって、Doing
Math と Teaching Math との相対的なバランスが重視されてくる。このような数学の変化に対応していくための、『教師教育』がますます必要