"Representation and Understanding:Studies in Cognitive Science"(Academic
Press, 1975) によって初めて公にされたとされる認知科学は、すでに言葉として市民権を得ているとはいえ、その内容については未だ確立されているとは言い難い。ここでは教育に認知科学的な発想を取り入れるため、「コミュニケーション」「社会的分散認知「教育モデルの構築」という3つの考え方を提示し、それぞれについて教育的検討を加えていくことにする。これらはそれぞれが、現代において教育の問題点として指摘されている事柄である。認知教育学ともいうべきこれらの視点は、教育への認知科学的アプローチとして、現在の教育を考えるに相応しい方法の少なくとも一つであることが理解されるであろう。
第1節 コミュニケーション
「いじめ」の問題を始めとしてこれ程、生徒間の、そして教師と生徒の間の人間関係を問われる時代はかってなかったのではないか。これまでは教師と生徒間の上下関係が歴然として存在し、生徒が教師の価値観に疑問を挟むようなことはほとんどなかった。しかし誤った民主主義の考えの下に、社会的規範がどんどん希薄になってしまった現代においては、善悪のけじめさえきちんとつけられない大人が増えてきている。まして自分の子どもや地域社会の子供たちに、それを伝えていくことは曖昧な状態になってきている。今必要なのは、こうした社会的規範や、大人同士や子ども同士、そして大人と子ども相互の人間関係の回復ではないだろうか。
しかしこのように述べることは簡単ではあっても、それを実現するための方策は今まで示されたことはあっただろうか。教師の多忙な日常の中で、雑務に流されずに生徒一人一人に対応できるような手段はあっただろうか。きれいごとの理論はもういらない。教師には、やる気さえあれば明日にでも実践できるような、具体的な手段が欲しいのである。
また、国際化時代に向けた教育も必要であるとされているが、どのような形が望ましいのであろうか。国対国における交流は、外交という名の下に、それぞれの利害関係や力関係のもとに行われている。身近なところで都市や学校ぐるみでといった姉妹都市あるいは姉妹校といった枠組みもあるが、それぞれの思惑も働き本当にスムーズに行われているとは言いがたい。
ここで求められているのは、個人レベルでの草の根的な交流ではないだろうか。一人一人が自分で責任をとれる範囲でものを言ったり行動したりする。そうした互いの小さな理解の積み重ねが、大きな国際理解といったものに繋がっていくのではないだろうか。
第2節 社会的分散認知
教育では、個別指導や学習の個別化という名の下に、学習指導を生徒個人の情報処理システムとしてとらえる場合が多い。この生徒の学習にはこんな問題があるとか、成績向上の裏にはこんな努力があったとか、生徒一人一人の情報処理プロセスをとらえることが学習指導であると考えている。学習は果たして個別のものであるのだろうか。学習を個別化することが本当に効率的で、真に有効な知識を身につけることになるのだろうか。
私たちは日常において、様々な情報を新聞やテレビ、他の人との交わりの中から得ている。その膨大な量の情報を、私たちはすべてを頭に記憶しているわけではない。自分に興味があったり、必要としている内容については記憶にとどめようとする。そのように個人的な必要性から記憶をすることもあれば、他の人のためにとあえて記憶をしておくということがある。また逆に、自分が必要とする情報を、他の人に尋ねることで得ることもある。このように私たちが行う情報処理プロセスは、個別的であるというよりは、逆に社会的であると言わざるを得ない。学校が一つの社会を形成しているのだとすれば、そこでの学習活動も個別的なものを基盤にしながらも、社会的活動(相互のインタラクション)が重要なのである。
社会的分散認知(socially Distributed connition)という考え方は、1980年代にコンピュータ・ネットワークの発展とともに広まった。コンピュータ同士を相互に接続して、それぞれの持つ情報を共有したり、遠く離れたネットワーク上の相手とコミュニケーションをとることが可能になったのである。そのネットワーク上に成立するコミュニティでの、情報の蓄積、交換伝達など、そうした過程において生じる参加者の学習をとらえる枠組みとして、社会的分散認知という考え方があるのである。
このように、社会的分散認知は、知識や学習を個人に閉じたものとしてとらえるのではなく、他者との協調場面や外的知識源へと拡張したという点で認知心理学の上でも一歩踏み出したものである。高度情報化社会を迎えて、人間としての情報処理能力の育成が叫ばれる中、一方では人間性の阻害についても懸念されている。しかし、そこで社会的分散認知としての機能が充分に働いていれば、生涯学習や高齢化社会にだって対応できるようなインフラとなりうるのである。
第3節 教育モデルの構築
「好きなことをやっていいよ。」と言われたとき、普通は途方に暮れるものである。日常においてよっぽど問題意識を抱えて生活をしているものではない限り行動の指針や枠組みといったものは必要である。その枠組みがあるからこそ、行動の停滞や行き過ぎといったものを是正できる。また、その枠組みがモデルとなるためには、構造や機能が必要である。それらを改良したり更新したりしていくことこそが、実践の指針となるのである。ここでいうモデルは、理論的研究対象となるような固定したものではない。教師の扱うモデルを構成する要素は、生身の人間である生徒であり、協調的に仕事を進めるのはやはり同じ人間の教師仲間なのである。不完全な人間が、これまた発展途上の人間を教育しようとするのであるから、このモデルには互いに成長する途上にあるという認識のもとに、相互作用としての教育を求めなくてはならない。
このような構造と機能を持ったモデルであるならば、多様なモデルを作った上で、相互に比較・検討を加えることが可能になる。今までの教育的議論は、一つずつの実践に対して絶対的な評価での検討にしかすぎない。絶対的評価とはいうけれど、時代や地域、そして集団の対象としての性質などによってもその善し悪しは大きく変わりうる。欠落していたのは比較するという視点である。ある目標に立った複数の実践が存在し、それぞれが仮説として構築したモデルを運用し、その結果によって構造や機能、そしてそれらを実現していった方法などについても検討することが必要なのである。