■第2章■ 教育をとりまく環境への働きかけ

第1節 子供たちをとりまく現状

大人の世界が子どもの世界を飲み込んでしまい、実体として一体化してきている現在、両者の緩衝装置(インターフェース)としての子どもの遊び場は失われ、互いに良好な関係を維持できなくなってきている。社会の情報化は、その量や内容について大人と子どもとの間に明確な区別がなくなってきていることが特徴である。その中で、確かに子どもは、情報を分析する力は大人よりも劣るかも知れないが、新たに自分なりの情報を創造していく力には長けている。大人はそうした子ども達の力に目を向けるべきで、いつまでも子ども達が後からついてくるような感覚でいては、子どもに対する理解を誤ってしまうのではないだろうか。

生きていくための情報(知的情報)と感覚を高ぶらせる情報(感覚的情報)について、最近は後者の方にウエイトがかかってきているといわれる。マスコミの情報操作が私達をそうしむけているのも現実であろう。この現実を情報化社会と呼ぶのなら、情報に対する価値意識の形成や、この情報化社会の特徴を自覚するための能力も必要であろう。このことへの一貫した自覚的思考が大切であるのだが、そのための具体的方法とはいったいどのようなものであるのだろうか。

子どもが本当に物事を理解するためには、『知の手応え』が必要である。このことは、数学の学習の中で生徒から、「授業では良く分かったのに、問題を解こうとするとできない。」と聞かされることから理解できる。「分かる」ことと「できる」こととの間に、大きなギャップが存在しているのである。

教師は生徒を学ばせるのではなく教えており、生徒もまた教わることに慣れきっており学ぼうとしない。いつどこからこのようなシステムになったのかということはさておき、私達教師に、認知科学的な視点が欠けている点を指摘せざるを得ない。認知科学的に「分かる(知の手応えを得る)」とはどういうことかというと、新しい情報を今まで蓄積されてきた情報と関連付け、知識データベースとして再構築し、瞬時の検索などに耐えられるようになることである。授業で単に分かるといっても間接知識が不用意に増えるのでは、情報関連の再構築に時間がかかり(ガベージ・コレクション)、かえって認知の障害となる。

現在の情報はインターネットが一般的になってくることによって、その加工・再構築・発信などの一連の動きが、マスコミや企業の手を離れて私達個人のレベルで可能になってきている。この流れの中で、子どもと大人の一体化はいろいろな意味で進み、学校教育においても両者の関係はますます民主的な関係に進むと考えられる。

知識は与えられなくても検索すれば手には入るものとなり、教師と生徒は学ぶための方法を共同で探索していく関係となる。そこでの教師は、学ぶための知識(メタ認知)を生徒よりは所有していれば良いのだが、所詮そのような知識もいつかは単なる知識に成り下がる。そして教師と生徒は真に民主的な関係となり、本来教育に求められている人格教育へと進むことになるのではないだろうか。

第2節 教育の枠組みの再構築

今の日本では、教育は学校を中心に行われている。地域社会の中心として機能してきた学校は、その地域から多大な期待を受けて子供たちに接してきた。ところがいつしか社会構造の変化から、父母の期待が上級学校へ進学することに向けられると、教育の目的が一方向だけに絞られて、その機能も学校という枠組みの中に限定されたものに変質してきたのである。本来教育は社会に向かって放射状に発散して行くべきものであり、そのことで教育は現実の世の中と密接な関係を持ち、また教育もその多様性を保ってきたのにである。暗室状態になった学校では、試験で測定される学力という均質な価値観に基づいた教育が行われるようになり、そこで立ち止まったり、そこから少しでも横道にそれることは全く許されない閉息した状況が生まれている。

ここでは学校という枠組みそのものを否定しているわけではない。子供たちが充分に社会的に教育されていない状態で世の中にでることは危険であり、当然それ以前に、しかる環境において経験を積むことは大切なことである。学校は現実社会から子供たちを保護し、徐々に社会生活に慣らしていくための機能を持つべきである。つまり、現実的な子供たち同士の交わりのため、大人を代表する教師や学校職員との交わりのためにはどうしても必要な枠組みでもある。そこで擬似的な社会経験を通して子供たちは多くのことを学んでいく。

仮想現実という言葉は、一時期大きく社会問題になったTVゲームや、本論文のテーマでもあるインターネットなどで一般的になったものである。よく仮想現実(Virtual Reality)と現実(Reality)が対比される形で議論されるが、両者は対の概念ではなく、包含する概念である。現実を包み込むように仮想現実があるのであり、実在する私たちが想像力によって現実を膨らませたところに仮想現実があるのである。二者択一という形で対比されたところでは、どちらがいいか悪いのかという議論にしかならない。その議論の多くは、仮想現実は人間形成に少なからずの害を与えるとしている。しかし包含関係にあると考えると、そこに仮想現実のメリットが見えてくる。

現実は堅い一枚の板のようなものである。それは見かけはしっかりしているが、思わぬ大きな力が加わるとバリッとおれてしまう危険性をはらんでいる。仮想現実は、その板の上下に張られる薄い板である。つまりそれは、全体でみると合版の体をなしているのである。このような合版は、社会にでても十分に実用的に役に立つものである。本論文でのイメージは、現実を学校に、仮想現実をインターネットに対応させたものである。硬直した学校を、少しくらい力が加わっても柔軟に凌いでいけるような環境を、インターネットの環境を取り入れることで実現できないものであろうか。

第3節 学校・家庭・地域社会との連携

1 連携の方法

情報化社会の現在、単なる知識はすぐに陳腐化してしまう。生涯学習社会を見据えたとき、これでは全く役に立たないことに教育の力を注いでしまうことになる。これからの学校は、知識偏重ではなく、真に「生きる力」を育成することを目指さなくてはならない。そのためには、ゆとりのある生活環境の中で、子供同士や教師たちとの豊かな人間関係の中で、楽しく学び合うことが必要である。そこでの教師には、多様な価値観と豊かな人間性、そして専門的な知識や技術、幅広い教養などが求められている。

このような教師になるためには不断の努力と研修が必要なのではあるが、日常の仕事に追われているとつい学校の中だけに閉じこもり気味になる。学校の仕事さえ遂行していればそれで良いといった錯覚に陥ってしまう。学校が開かれたものになるためには、まず教師の気持ちが学ぶ意志によって外に向かって行かなくてはならない。また外の情報を積極的に学校に取り込んでいく努力も怠ってはいけない。つまり、こうした学校の外とのコミュニケーションの道具としてインターネットは活用できないであろうか。

学校と家庭のつながりの希薄さはどこから来るのであろうか。家庭が家族の精神的な安定よりも別の価値観を持ち始めているという風潮もあろう。また学校が進学などの偏差値や序列等、一元的な価値観の元に教育を行ってきていることにもその遊離の原因はあることだろう。しかしもっと基本的なところに、連携の手段がなかったことは挙げられないだろうか。通常、学校からの連絡は、印刷物が子供たちの手を渡って学校に届くことで行われる。しかし印刷という手間を考えると、それが学校の様子を細やかに伝えているとは思えない。子供たち自身の声を聞くにも、塾だ予備校だという忙しい中では、その余裕さえない。家庭から学校に向けた関係でも、学校を訪問する時間や手間、電話を掛けた時に担任がすぐに対応できるかなど、壁は高い。こうした連携をとる手段は、時間的空間的制約を超えられるメディアに期待する他はない。電子メール(メーリングリスト)やWWWの活用は、この局面に新たなる方向性を示してはいないだろうか。

2 ボランティア

横断的・総合的な学習環境の構築と、そこでの多様な価値観の創造によって、豊かな人間性と生きるための力が身につくであろう、ということはすでに述べた。また、そのような学習環境の構築には学校・家庭・地域社会とが連携することが必要で、そのための手段としてインターネットの効用も上に述べた通りである。しかし、方法としてのインターネットが用いられたとしても、そこでネットワークするのは生身の人間である。特に地域社会との連携をはかり、子供たちの学習環境を構築しようとしたとき、ボランティアという概念を意識しておかなくてはならない。

地域社会がほとんど村的な共同体であった頃、互いの面倒を見合うことは当たり前のことであった。それはあえてボランティアなどとは言うまでもなく、日常の生活をしていく上では当然の振る舞いであったのである。現在は人間関係の希薄化とともに、意識をしなくてはボランティアとしての行動を起こせなくなってきている。しかし、地域社会に貢献したいと考えている人たちは潜在的に多いものだ。これらの人たちが自分の生活に対する負担を限りなく少なくして、かつ広域学習環境に援助をしてくれるのを用意にするためには、それなりの仕組みや組織が必要となるのではないだろうか。